うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

スティーヴ・バノン、イスラエルのハアレツ紙のインタビュー記事「なぜ反ユダヤ主義ではないのか」

https://www.haaretz.com/world-news/.premium.MAGAZINE-steve-bannon-tells-haaretz-why-he-can-t-be-anti-semitic-1.6316437

民主党がアインデンティティ・ポリティクスについて語れば語るほど、こちらに有利になる。民主党には人種差別について毎日のように語ってもらいたい。もし左翼が人種とアイデンティティーに焦点を当てるなら、我々は自国経済主義で行く。そして我々は民主党を壊滅させることができる」 

“the longer they [the Democrats] talk about identity politics, I got ’em. I want them to talk about racism every day. If the left is focused on race and identity, and we go with economic nationalism, we can crush the Democrats.”

 

トランプの立候補が無視される危険がないわけではなかったが、その危険はあの時あの場所で消え失せた。大統領候補者がメキシコ人を「強姦者」とレッテル貼りした、という報道があらゆるメディアに出た。トランプに大統領候補失格という烙印を押そうというメディアの試みが、トランプを大統領候補にした。そしてその後、トランプは有力な候補者になっていった。同じことが繰り返されていった。

If there was ever a danger that Trump’s candidacy was going to be ignored, it disappeared then and there. The entire media echoed with reports that the presidential candidate had branded Mexicans “rapists.” The attempt to delegitimize Trump transformed him into a candidate, and afterward into a leading candidate. 

 

そのときの戦略は、またしても、ポリティカル・コレクトネスの泣き所にくさびを打ち込むことだった。つまり、言葉は行為と同じであるという考え方、象徴を現実であるかのようにみなす見方である。

The strategy was, again, to drive a wedge into the weak hinge of political correctness: the conception of words as equal to deeds, and view of symbols as if they were reality.  

 

ティーヴ・バノンのことをずっと道化師的なプロパガンダ屋だと思っていたが、その印象はかなり的外れであることに気づかされた。アイルランド系の出自、カトリックという宗教的背景、古典的な教育、軍隊経験、ハーバード・ビジネス・スクール、金融業界、ハリウッド産業、そして、右翼メディア。たしかにこの紆余曲折は王道のエリートの歩む道ではない。しかし、この経歴からすると、バノンは知的エリート階級に近いと言うべきであるように思う。

 

反知性主義

ホフスタッターによれば、アメリカの反知性主義とは、知性(エリート)にたいする反知性(非エリート)という単純な敵対関係ではなく、メインストリームの知性から離反した者によるメインストリームの知性にたいする攻撃であると定義されていたはずだが――非常に単純化して言えば、アメリカの反知性主義とは、エリートになり損ねた者(ドロップアウト)がエリートになった者にたいして仕掛ける内部叛乱である――バノンのケースはこの系譜に連なるものであると見なすべきかもしれない。バノンがメインストリームにたいして何らかのルサンチマンを抱えているかどうかは、この記事からではわからないけれど。 

バノンはエリートの端くれであるかもしれないが、超特権的なエリートでないことは間違いない。ドロップアウトではないが、はぐれ者に近いだろう。だから、彼が99%のほうを代表して語るのはどこか欺瞞めいているように聞こえなくもないのだが、1%と自らを同一化することはできないという微妙な距離感はあるのだろう。

そう考えていくと、彼がティーパーティー的な世界観を遠慮なく振りかざせるというのは、意外と腑に落ちるところではある。現代社会の問題は、超エリート(政府の金で救済される巨大金融機構)と超貧困層社会保障制度にべったりと依存する集団)のせいで、真面目に働いて真面目に税金を払っているもの("little guys")が割を食っている点にある、という現状認識だ。

 

自国経済主義の非経済的な含意 

バノンが強固な世界観を持っていることはまちがいない。それはユダヤキリスト教的なものであり、きわめて白人的な世界であるはずだ。親イスラエル的であり、親ユダヤ的である。にもかかわらず、彼が政治戦略的な標的とするのは、イデオロギー闘争ではなく、経済である。Economic nationalismをなんと翻訳すべきだろうか。経済主義、経済国粋主義、自国経済主義。トランプのいう「アメリカ・ファースト」もEconomic nationalismのパラフレーズのひとつのパターンであると言っていいだろう。経済優先主義。

 繰り返すが、経済優先主義は、決して純粋に経済的なものではない。というのも、自国経済の立て直しのために目指されるのは、経済的な政策というよりは政治的なものであり、自国の内側からというよりは他国に押しつけることも前提として含まれているからだ。内側においては、スーパーリッチとスーパープアにたいする闘いであり、その目的のために、外部は完全に従属させられなければならないということなのだろう。「アメリカ・ファースト」とはそういうことだ。政治的な介入なしには絶対に不可能な方向性だ。 

バノンはここではそこまで語ってはいない。彼が議論の俎上に載せるのは、人種問題であり、左翼的理念であるポリティカル・コレクトネス(PC)を逆利用する方法である。バノンにしてみれば、左翼が人種を問題化してくれればしてくれるほど、自分にとってはありがたいというのだ。なぜなら、PC的な批判は、「奴らは経済問題を最重要視していない」というメッセージに変換可能であり、「我々は経済問題を最重要視する」と喧伝するための材料に使えるからだ。

 

個人的なことは政治的なことである、けれども 

この記事を読みながら考えさせられてしまったのは、「ロッカールーム・ジョーク」がどこまで許容されるのか、という問題だ。卑猥な冗談がどこまで許されるのか、というのではなく、そういう冗談がどこでなら許されるのか、という問題だ。

60年代フェミニズムのスローガンは「個人的なことは政治的なことThe personal is political」だった。一見すると個人的なことに思えること――たとえば恋愛、夫婦関係、家事、個人的趣味――は、つねにすでに、政治的な問題である、という考え方である。そしてそれは、まったく正しい見方である。恋愛関係が人間関係の一種である以上、そして人間関係にはつねに何らかの権力関係が入りこんでくる以上、私的行為に思われる恋愛には、必然的に公的なパラメーターが入りこんでくる。男が女をどう扱うべきか、女がどういう扱われ方を好むべきか、男を能動におき女を受動におくような考え方それ自体が、社会的規範の無意識的な反復である。もちろん、こうした見方から、家庭内暴力(親が子にふるう暴力、子が親にふるう暴力、夫が妻にふるう暴力、妻が夫にふるう暴力)を犯罪化しろというような単純な解決策を引きだすべきではないだろう。しかし、私的なこと/公的なことという厳格な二分法は、私的な領域を治外法権としてしまう危険性があることを明るみに出した点において、まったく正しいものだったはずだ。

しかしバノンが目論むのは、公私の区別の改めて引き直すことであるように思われる。60年代的な見方(とくにその極論的な立場)をとれば、卑猥な冗談は、だれがどこで口にするのであれ、つねに有害であるという結論が引き出させるだろう。私的な領域は公的な領域と繋がっている、だから男同士の仲間内のジョークであれ、それはつねにすでに仲間以外の空間にも開かれてしまっている、要するに性差別的な言葉は感染的であり、どこか隔離されたところでひっそりと口にされようと、いつのまにか公的空間全体に広がってしまう危険性がある、というわけだ。

要するに、こうした見方に従えば、あらゆる卑猥な冗談は撲滅されなければならないというような極論に行き着いてしまうし、それは、卑猥な冗談を無神経に楽しんできた方からすれば、抑圧にほかならないものでもある。「それぐらい大目にみろよ」という気持ちがわいてくるものかもしれない。

現在の白人至上主義的な言説や行為において、そうした鬱屈が、無差別的な攻撃へと暴力的に転化しているのを見ると、「大目にみろ」という物言いの危険性を過小することは許されないと思うものの、「いままで楽しんできたものを奪われた」という感覚があるのだろうという点については、否定すべきではないだろう。もちろん、彼が「いままで楽しんできたもの」は、不当に楽しまれてきたものであった。それを取り上げることはまったく「正当」な正義の行為である。しかし、不当であったにせよ、「取り上げられた」という喪失の感覚は、失った者にとってはまったくリアルのものであるにちがいないわけで、バノンのプロパガンダ戦略の狡猾さは、現代のPC的世界観においては大っぴらに公言できない、不当に楽しんできたものを正当に奪われたという意識(加害者の被害者意識)を正当化するための手段をもっともらしい形で提供しているところにあるように思われる。

卑猥な冗談を認めるべきだという議論に向かうべきではない。卑猥な冗談を限定的に認めるべきだという議論は、もしかすると、現代の喫煙のゾーニングの問題とどこかパラレルかもしれない。しかし煙草の煙は空気清浄機によってある程度まで隔離できるかもしれないが、卑猥な冗談は隔離された空間からたやすく別の空間に持ち越される。

それに、私的な空間における公的ではないジョークは、現代のSNS的な世界においてますます隔離不可能になっている。私的な会話をしているつもりでも、それがSNSに投稿されれば、それはもはや公的な言説の一部になる。

60年代フェミニズムのThe personal is politicalにたいして、現代の差別主義者たちはThe personal is political, BUTと応答しているように見える。「なるほど、私的なものが政治的なことであることは認めよう、けれども……」というかたちで、いままでどおりのことをやってもいい特権的空間(喫煙所のようなもの)を確保しようというのだ。ところが、その「けれども……」がSNSのような私と公の区分を無意味にしてしまうような空間へと拡散していくとき、この「けれども……」はまったく容認しがたいものになるだろう。

 

けれども、「けれども……」という感覚がリアルであることは、やはり、否定できないように思われる。「けれども……」という身勝手な喪失感を禁止することは、あまりに抑圧的すぎるのではないか。それはほとんど宗教的な厳格さだ。白黒二元論でしか考えられない思考は柔軟性に欠ける。だが、「けれども……」を野放しにするわけにはいかない。これまで差別してきた側を懐柔することを目指すべきではないのは当然だ。しかし制度的な差別や構造的な差別を、制度的かつ構造的に反転させることができたとしても、差別者のルサンチマン(不当に楽しんできたものを奪われたという喪失感、加害者の自己憐憫的な被害者意識)は残り続けてしまうだろう。そして、そのような残存する後ろ向きの傲慢さが、イデオローグによってハッキングされているような現代においては、この差別者の被害者意識(主観的には真正であるが、客観的には身勝手でしかない意識)を何もせずに放っておくことはできないのではないか。そしてこの心理=情動態度を変容させるには、上から(目線)の啓蒙では不充分ではないか。

 

思考警察に陥ることなしに、いかにしてこの「けれども……」を非暴力化できるか、そこにこそ、バノンの仕掛ける経済主義という名の白人的イデオロギー闘争を無力化するための鍵があるように思われる。