音楽の捉え方を開く、音そのものの豊饒な複雑さを音楽にする
クセナキスは西洋音楽のパラメーターを変えようとした。ブーレーズたちのトータル・セリエリズムはパラメーターを精緻化し、その複雑性のすべてをコントロールしようと試みたけれど、クセナキスは音そのもの――音高のような楽譜に内在するものだけでなく、音色といった奏者の実践に属するところまで――を作曲の要素としていったのだろうということが、1981年にラジオ番組のために行われたインタビューを文字起こししたこのテクストからよく感じられる。
とくに面白いのは、クセナキスの倍音にたいする感性だ。倍音は果たして誰が管理すべき用件なのか。作曲家か、奏者か。必然的に生み出されるべきものか、偶然的に生まれるものか。クセナキスにとって倍音は彼の音楽の一部であり、だからこそ彼はヴィブラートを嫌い、倍音を持続させることを弦楽奏者に求めたのだ。クセナキスを貫いているのは、狂おしいまでの一貫性への希求である。
―― たしかに私たちの耳は、音のそういう側面[楽譜に記された通りの音高であっても、弓の向きや圧で変化してしまう倍音]は考慮に入れないものになってしまっていますね。
ええ、といっても、もし自分自身厳密に一貫性を持ちたいと思うなら、自分の音楽において音の高さが重要であることを望むなら、倍音の中にも、つまりどんな音の音色の性質の中にも、複数の音の高さが存在していることを考慮しなければならないのです。そういうわけで、音の高さを本当にとても大雑把に捉える場合、たとえば、音階や音符を弾くだけの場合には一貫性を保てるのですが、音色が問題になってくると、もう一貫性はないことになる。音色の中では、ずっと微細で複雑に倍音の音高が組み合わさってできている。そこで、大きく一貫性を欠くことになってしまうのです。
―― 音に関する話となると、俄然、饒舌になりますね……(109-10頁)
クセナキスが本当の意味で複雑化するのは、音にたいする感性そのものなのかもしれない。楽譜にたやすく記すことのできる音高だけではなく、そこには明確なかたちでは書き込まれてこなかった別の音の要素を、音楽の一部としていくことであり、それこそを音楽の一部として捉えるという別の感性の醸成である。書かれた音と聞かれる音、マクロで捉えた音高とミクロに捉えられる倍音、それらの差異をひとつの現象として捉えることである。
この路線の先にトリスタン・ミュライルやジェラール・グリゼイのようなスペクトラル学派が位置づけられるのかもしれないが、クセナキスの方向性は、洗練による純化というよりは、切り詰めるによる裸の本質を迫り出たせるほうにあるようだ。クセナキスが西欧近代文明が生み出した工業生産品としての楽器ではなく、いわばプリミティヴな生の楽器のほうに惹かれているのは、まさにそこにこそ、音そのものが現出するからなのだ。
何が難しいかというと、音の美しさは、まさにそれを創り出す大胆さにあるからです。そしてそれこそが、人間の価値なのです。自分の機械仕掛けの器具である楽器を持って、その装置から何か基礎的なもの、単純で旋律もない、まったく何の飾りのない音そのものとして、それだけで一つの詩となりうる、音それ自体を生み出すことができるのです。そして、それこそが音の美点なのです……[アジアやアフリカの音楽文化が高度な文明のなかでは]音それ自体がたしかに存在する物なのです。それは想像の産物ではない。タブラの皮を叩いて、出る音は非常に美しい。それに対して、西洋の打楽器は産業化のせいでだめになってしまった。弾いてみる価値などない、醜い音の楽器ばかりです。ナイロンの皮に、多かれ少なかれプラスチックを使った胴、いいかげんな形、適当な張り具合、もう嘆かわしいかぎりです。それに対して、テレビやラジオなどに蝕まれていない、まだ生き生きとしている文明の楽器を使うと、音そのものがよく培われ、研ぎ澄まされていますね。それに対して西洋の音楽学校では、才能がないと音そのものの文化が欠けているという点を超えられない。だから西洋では、音の出し方を教えるのです。(107頁)
究極的には、たったひとつの音すら、音楽なのだ。
ノイズを音響として捉える感性
しかしクセナキスが知性的に音を構築しようと考えていたことはまちがいないし、知性主義的な音楽創作という意味ではヨーロッパの戦後前衛と軌を一にするものである。にもかかわらず、同時代の西ヨーロッパの作曲家とはちがって、このギリシャからの亡命音楽家は、音楽をなによりも空間に鳴り響くものとして捉えていた節がある。彼が作り出すの音楽は、音響空間であり、音響風景なのだ。だからこそ、クセナキスはヴァレーズの音楽を称えるし、都会の街角のノイズすら音響なのである。
ノイズを音響と捉える感性は、おそらくきわめて20世紀的なものだろう。アイヴズやヴァレーズが試みたように、ノイズを音楽化するのではなく――それではリヒャルト・シュトラウスの物語的な音響詩やドビュッシーの自然風景の描写音楽になってしまう――ノイズを音楽として再構成することであり、音楽をノイズとして創造することである。ドゥルーズとガタリはたしか最後のコラボレーション作となった『哲学とは何か』のなかで、哲学とは思考においてカオスを再創造することだというような発言をしていたけれど、アイヴズ-ヴァレーズ-クセナキスの音楽もそうした試みとして捉えることができるだろう。
私は最近、街の音の性質というものを聴き分けられるようになりました。たとえば街の音質は、建物が三次元でどう空間を構成しているかによって異なります。ニューヨークのような街は、残響率や音質が素晴らしくいい。それに対してパリのような街は、音が響かない。パリの建物はニューヨークより低いので、摩天楼のような音の反響が起こらず、音が比較的早く消えてしまうからです。そういう意味で、ニューヨークは、まさに音量や、音の力強さ、内側に残る音のエネルギーがとても見事な例です。結果として、音の美しさがある。残響として残っている音がとても美しいからです。たとえ元の音自体がそれほど面白いものでなくてもかまわないほどです。これはまさに都市規模での体験の一つですね。(228-29頁)
こうした態度からいくつかの帰結が引き出されるだろう。
ひとつは、それまでの慣習的な記譜法が役に立たなくなる、という点だ。音高は記載できても、倍音は書き込めないし、ましてやマスとしてのオーケストラの倍音を五線譜のフルスコアに書き下ろすことはできないだろう。図形楽譜のような別の書記メディアが誕生したのは、新奇さのための新奇さではなく、クセナキスの音についての思考や感性が要求した必然的なものであった。
ふたつめは、楽譜だけで音楽は成立しない、という考え方である。一方において、音は現象であり、実際に鳴り響かなければならない。そして、それは現象学的に体験されなければならない。作曲者と楽譜だけでは不充分であり、実際の音と、それを体験する聴者が必要である。
知性的な創作と感性的な鑑賞のあいだのズレ
ここから、さらに別の帰結が生まれてくる。一方において、クセナキスは、音楽は細部まで構築されなければならないという厳密な知性主義を奉じるが、他方において、そうした純粋知性的な聴取態度を聴者に求めているわけでもない。作曲のロジックと鑑賞のロジックは、クセナキスのなかでは、複線的なシステムを成しているのかもしれない。クセナキスは決して聞き手を作り手の下に置くようなことはしない。むしろ、それぞれに別の役割や感性を割り当てているのだ、と言ったほうがいいかもしれない。
この文脈でとくに興味深いと思うのは、クセナキスが偶然性を理論化する手つきだ。クセナキスは数学的な手法を作曲に持ち込んだことでよく知られているが、ここでも、数学はむしろ手段であって、目的ではない。演奏者に任せれば手癖になるし、演奏者がすでに内面化してきている音楽的限界は越えられない以上、本当の意味で偶然に聞こえるような音楽を作るには、すべてを管理するしかないのだ。逆説的なことだが、偶然的な音楽を響かせるには、すべてをコントロールし、無意識的な反復やパターン化すらをも排除した楽譜を用意しなければならない、とクセナキスは主張する。
しかしながら、そこまで偶然性を体現する音楽を厳密に追及するクセナキスだが、複雑性の問題となると、ル・コルビュジエの建築事務所で働いていた亡命作曲家の態度はきわめて柔軟である。クセナキスは知性と分析によってわかるものと、耳で聞いてわかるものとを、はっきり区別している。それはつまり、理性的把握と感性的把握の質的差異を理解しているということでもある。だからこそ、理性的把握を推し進めたトータル・セリエリズムとは距離を取り、ミュージック・コンクレートのほうに親和性を示したのだろう。
作曲家としてのクセナキスと、クセナキスの思い浮かべる聴者のあいだには、明らかなズレがある。
数学的に音塊をコントロールしようというのは、クセナキスの理性的一貫性の現れであるし、原理の簡潔な優雅さを尊ぶ数学的感性の現れでもあるだろう。作曲家クセナキスが目指すのは、単一原理による複雑性の構築であり、無秩序性や確率的偶然といった現象を、厳密な秩序的思考によって創造することである。
しかしながら、クセナキスは、過度に複雑な音楽はもはやただのカオスにしか聞こえないだろう、ということもわきまえている。もちろん彼は聴衆が複雑な構造を完全に聞き取ることを期待しているわけではないが、創造された複雑性なのか単なる無秩序なのかが聴覚上まったく区別できないような音楽にたいして深い疑いを抱いているようでもある。
「常に移民であらねばならない Il faut être constamment un immigré」
このインタビューがひじょうに刺激的なのは、クセナキスが作曲技法のことだけではなく、その背後にある彼自身の世界観のようなものを語っているからだろう。それはクセナキスの音楽を、ギリシャにおけるレジスタンスといった政治的前史であるとか、フランスでの建築家としての仕事といった全人的芸術家のあり方というような具体的でわかりやすい事柄ではなく、クセナキスという人間その人の抱く理想や信念という視点から捉え直すことを可能にしてくれるからだろう。
クセナキスは、理想主義的であることと忘却的であることを、両立させようとする。どちらかだけではだめなのだと言う。強固でありながら、それを脱臼させ、茫然とさせるような一撃が必要なのだ、ということだろうか。凝り固まってはいけない、つねに寄る辺なき所から立ち上げていかなければならない。それが「いつも移民として生きてきた Il faut être constamment un immigré」という一文でクセナキスが言わんとしていることなのだろう。
音響としての音、それは場で響くものであると同時に、その場にあって聞く者と響き合うものでもある。音は体験であり、体験は聞き手と深く響き合う。そうして音は人々のあいだに開かれ、それを通じて過去や未来とつながっていく。
私がある音楽を好きだと思うとき、その音楽に取り憑かれています。私は、音楽を自分自身の一部であるように感じるのです。わかるでしょうか。というのは、私の考えでは、実際あらゆる音楽、あるいは人を惹きつけるあるゆるものが、触媒のような役割を果たし、それによって、自分自身の中にあるものが掘り起こされたり、気がついてりすることができるからです。それは、そのときあなたが見たり聞いたりしたものの存在の効果によるものなのです。いわば麻薬に似ています。といっても、その人自身に関わる麻薬、精神的な麻薬で、それによって麻痺するのではなく、自己の才能、個性や理想に気づかせ、花開かせてくれるのです。それもさまざまな、多様なやり方で。ときには、とても深く。つまり私は、こういうふうにあなたの言う「力」や「支配」について捉えています。(243頁)
それはとても美しく、とても危険な力だ。そしてその力をこそ、クセナキスの音楽は表出しようとしてのだろう。いや、それどころか、クセナキスの音楽はそうした力そのものになろうとしたのかもしれない。そこにこそ、クセナキスの音楽の時代を超えた永遠性があるのではないだろうか。