うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

有機性による無機性:アルディッティ弦楽四重奏団+野平一郎によるオール・クセナキス・プログラム

20220903@静岡音楽館AOI

クセナキスの音楽はもしかすると、ウェーベルン的と言いたくなるような断片的ブロックを、非有機的なかたちに繋いだような構造になっているのではないかと、譜面をめくる演奏家たちの所作を見ながら初めて思い至った。

アルディッティ弦楽四重奏団と、静岡音楽館AOI音楽監督の野平一郎によるオール・クセナキス・プログラム。ここまで挑戦的な演目を静岡でやるのかと驚くが、はたして、ホールは満員御礼からは程遠い。朝、当日券があるかと電話すると、「340ぐらいあるので、このまま電話で予約するのでも、ホールに来てから購入でも、大丈夫でしょう」とのこと。AOIのホールは室内楽を念頭においたシューボックス・タイプで、600席ほどの中規模ホールだから、客の入りは半分以下だ(とはいえ、実際にホールを見た感じ、ガラガラということはなく、かなり埋まっているように見えたのは、1階席真ん中の列がほぼ完売で、二階席にしても正面の前数列が完売だったからだろう)。

クセナキスは正直苦手な音楽家ではある。理念的には、何をやろうとしていたのかは、わかっているつもりだ。演奏会前の無料講義で音楽評論家の白石美雪が述べていたように、クセナキスは、トータル・セリエリズムの不毛な複雑さと、チャンス・オペレーションの無作為の複雑さ——それはいわば結果としての複雑さである——にたいして、意図的な複雑さ、効率的に構築された混沌としての複雑さの提示を目指したのであり、そのためのコントロール手段として、コンピューターによる演算を用いた。そのようなエンジニアリング思考には、彼がギリシャで学んだ建築と数学、そして、亡命先のパリでのル・コルビュジエの建築事務所での仕事がかかわっていることは間違いない。また、クセナキスにある大音量やカオスへの志向が、ギリシャにおける政治闘争への参加――その最中でクセナキスは左目を失ったのだった――や古代ギリシャの祭祀的なものへの思慕にある。古代的なもの、政治的なもの、技術的なものを融合させ、それを音楽的なものというよりも、空間的な体験として創造するところに、クセナキスの特徴があると言ってよいだろう。しかし、それはつまり、彼の「音楽」は音源として聞くだけは不充分であるということも意味するだろう。

アルディッティを生で聞くのは初めてだ。音源で聞く彼らの演奏は、まさにゲンダイオンガク専門のカルテットらしく、人好きのしない、峻厳にして正確、抒情性のかけらもない冷酷無比なところが前面に出ており、楽しめない。ベートーヴェンの「大フーガ」のような古典的なレパートリーもわずかながら録音しているものの、それも現代音楽から逆照射した古典であり、技術的な卓越性には驚嘆するものの、それ以上のものは感じなかった。ファースト・ヴァイオリンのアーヴィン・アルディッティがキャリアの最初期にロンドン交響楽団の団員で、コンサート・マスターにもなったというのを見るにつけても、この超客観性の超絶っぷりには驚かされるばかりである。

しかし、生でアーヴィン・アルディッティが弾くのを見ていたら、「ああ、この人はこういう音楽が本当に心から好きなのかな」という気になった。ほかのメンバーに事細かに指示を出すタイプの奏者ではないけれど、カルテットのリーダーとして要所要所では合図を出すし、弾きながら微妙にパッセージを口ずさんでいるような瞬間があった。グールドの鼻歌のようなものが。そこになにかとても感動させられた。

アルディッティも70歳近い。だから若い頃の彼がどのようなスタイルで演奏していたのかはよくわからないけれど、今回聞いた感じだと、音量で押し切るタイプではないし、器械体操的な指回りを見せつけるタイプでもなかった。物量ではなく、質的な正確さで切り込んでくる。左手も右手も怖ろしく正確で、個人的に驚いたのは、弓圧がわりと軽そうだった点だ。フェザータッチというほどではないけれど、押しつけるような硬さがなく、むしろ全体的な速度と瞬間的なインパクトによって鋭い音を出しているのではないかという感じ。原理的にはわかるが、こういうやり方があるのかと、かなり驚かされた。こういう弾き方をする弦楽奏者は珍しいように思う。

軽くて鋭い。重心がないかのようで、にもかかわらず、音が浮かない。不思議な浮遊感があるのに、然るべきところに然るべきように音が次々と的確に着地していく。ある意味では非人間的、打ち込み音源的な感じもするのだけれど、この愉悦感、このスリリングさは、人が弾かなければありえない性質のものだろう。

個人的にクセナキスが苦手なのは、彼がいわゆる「ノイズ」に類する音を多用するのと、奏者の生理に反する(すくなくとも、西洋古典音楽をベースに学んできた者が会得した第二の自然としての生理に反する)音の並びで音楽が出来ているからだけれど、アルディッティはそこをことさらに強調しない。彼らにしてみれば、古典的な音楽観からすれば「ノイズ」になるものも、「サウンド」の一種であり、旋律とは捉えがたい音の並びが「音楽」になる。

音源で聞くと、さまざまな特殊技法、古典的な観点からすると「ノイズ」であり、技術によって克服しなければいけない「雑音」的な軋みがあまりにもはっきりと聞こえすぎて、それが生理的に少し受け付けないのだけれど、生だとホールトーンと混ざるからなのか、そこまで気にならない(まったく気にならないわけではないけれど)。たしかに細かなパッセージになると、録音ほど識別可能なかたちで聞こえるわけではないけれど、そのような顕微鏡的音像がはたして適切なのかどうか、あらためて考えさせられる。とくにクセナキスのような音楽の場合は。

アルディッティは音楽の「有機性」をある意味では否定するのだけれど、完全な「無機性」――たとえば打ち込み音楽――を達成しようとはしてないように思う。彼らはいわば、有機的でしかありえない人力で、その有機性を否定することなく、かといって、その有機性を無機的なものに変容させるためにメカニックなところを極限まで突き詰めるのでもなくて、つまり、人が機械のように弾くことを目指すのではなくて、有機的なものの不可避的な不完全性を十全に引き受けた上で、クールに無機的なものを演じようとしているのではないだろうか。それは、人が人のまま、可能な限りロボットを演じようとするような営為かもしれない。

演奏会は2部構成で、前半は、バルトークの残響が聞こえるギリシャ民謡をフィーチャーした習作期のピアノ曲「6つのシャンソン」(1951)から始まり、弦楽四重奏曲が2曲。コンピューター演算を用いたひたすら異形の「ST/4」(1956‐62)と、それよりははるかに音楽的な流れを感じる「テトラス」(1983)。後半はピアノとヴァイオリンの二重奏の「ディクタス」(1979)から始まり、弦楽三重奏曲の「イコール」(1978)を経て、この演奏会の最大編成となるピアノ五重奏曲「アケア」(1986)で締めくくられる。基本的に後半のほうが聞きやすかったが、それが果たして曲のせいなのか、それともこちらの耳が慣れてきたからなのかは、いまひとつわからない。

しかし、クセナキスをこのように聞き続けて気づいたのは、クセナキスの音楽は点や線ではなく、群で出来ているのだろうということだ。だから彼の音楽を聞きながら、リズムやメロディを、響きや構造を追いかけるのは、的外れだろう。音塊としての音楽であり、それは、音楽の内側から個々の音の関係性を分析的に聞くのではなく、外側から全体として直感的に体験すべきものではないだろうか。

しかしまさにその点において、アルディッティと野平の音楽性の違いが表面化していた。野平のピアノはやはり究極的なところで、響きの美しさを捨てていない。だから彼が加わった「アケア」はどこかフェルドマン的な哀しい諦念的な響きが聞こえてきた。

楽しめた演奏会だったかと問われると、言い淀む。刺激的ではあったし、面白かった。日常では使うことのない聴覚や時空間認識を使うことができて、興味深かった。しかしそこに生理的快楽があったかというと、どうなのだろう。そのように感性的なところが刺激されたという意味ではたしかにある種の快楽はあったけれど、それは内容的な意味でのものではなく、もしかすると、カントが『判断力批判』で論じているような、感性と悟性と理性という3つのスキームの相互連動によるものだったのではないかという気もする。要するに、内容的には意味不明だったが、にもかかわらず、形式的にはひどく刺激的だった。よくわからなかったけれど、にもかかわらず、インパクトのある体験だった、という感じ。

もう一度これと同じ演奏会を聞きに行くかと言われると、迷う。Noと即答しないが、Yesと即答もしない。