うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

翻訳語考。集合的な名称をどう訳すか。

翻訳語考。集合的な名称をどう訳すか。英語は -er や -ian のような接尾辞を土地の名前につけることで、「~人」のような意味の単語を作ることができる。たとえば、New Yorker であるとか、Californian というように。けれど、これを「ニューヨーク人」とか「カリフォルニア人」とするのは何か違う気がする。

今悩んでいるのは、たとえばボルネオ島にすむ the Dayak のことを「ダヤク族」とすべきなのかという問題。日本語で「民族」というとき、そこで想定されている西洋語は ethnicity なのだと思うが、日本語の「民族」ほど頻繁に使われる単語ではないように感じる。つまり原語ではただ the Dayak となっているものに、「族」という日本語の単語を補うべきなのかどうか。

日本語は集合的なカテゴリーを指示するのがあまりうまくないのかもしれない。英語であれば、「カリフォルニアという地域に住んでいる人」というかなりざっくりした意味で Californian と言えてしまうけれど、では日本語でそれが成立するかというと、どうだろう。たしかに「東京人」「大阪人」「京都人」とは言える。けれどもそれは、もしかすると、New Yorker のような、「その土地に住んでいる人」+「その土地特有の文化を身に付けている人」という意味に近いのではないだろうか。「関東人」「関西人」のペアもそうではないだろうか。文化的な余剰がある。

では「静岡人」と言えるかどうか。言えるだろうが、それは客観的カテゴリというよりは、主観的なそれであり、かつ、思い入れのある自称になるような気もする。だから、ニュートラルな呼称としては「静岡県民」のようになるのかもしれない。市のレベルでも事情は同じだろう。「磐田人」と「磐田市民」の違い。しかしだとすれば、「市」や「県」のような行政区分をかませないと、(現代)日本語は座りが悪いのかもしれない。同じことが「東京人」と「東京都民」についても当てはまるのではないだろうか。そして、行政区分を介すと、文化的な残響は消えるだろう。

このように書きながら、自分でも何が言いたいのかよくわからなくなってきたけれど、おそらく英語のほうが、自称/他称、主観/客観の両方にまたがるような、ファジーな言葉があるのではないかという気がする。しかし、日本語にはそのような幅の広い言葉がないため、Semites を「セム族」とし、Americans を「アメリカ人」とし、Parisian を「パリジャン」と訳し分けることを迫られるのではないか。

個人的にはこのあたりの表現を一律に「~人」で乗り切れないかと思っているのだけれど、なかなか難しい。

まったく別の問題だけれど、「~人」という複数のカテゴリーをジェンダーニュートラルに受けるのは、現代日本語ではかなり難しい。「彼ら」とするのは個人的に好きではないが、かといって、毎回「彼ら彼女ら」「彼女ら彼ら」とするのはあまりに煩雑。だから代名詞を消しても意味が通じる日本語を作り、どうしても必要なときは固有名詞を繰り返すようにしているが、これはこれでものすごい綱渡りになる。

新しい日本語の代名詞が、集合的なカテゴリーを名指すニュートラルな言葉が必要だ。