うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

20260520「読売交響楽団 第658回定期演奏会」@サントリーホールを聴く。

ウェーベルンの《パッサカリア》の冒頭のピアニッシシモのピチカートが柔らかく、ふわりと優しく響く。指揮棒を持たないカンブルランは音を点ではなく線や面で捉えるつもりなのだろう。まずはフルートで、そしてクラリネットへと引き継がれ、次第に盛り上がっていくなか、主旋律も対旋律も伴奏音型も対等に扱われるため、音響はますます立体的になっていく。弦楽器が16分音符でアルペッジョを駆け上がり、突如として加速し始めても、全体の構えは揺るがない。

初期のウェーベルンは肥大化傾向を示した後期ロマン派の権化たるマーラーの延長線に位置付けることもできれば、20世紀の現代音楽のさきがけと見なすこともできるけれど、カンブルランは第三の可能性を提示しているように思う。クラシック音楽の保守本流の発展的な継承者としてのウェーベルンであり、それはひょっとすると、ブラームスの《ピアノ四重奏曲第一番》を編曲した師のシェーンベルク、シューベルトの《ドイツ舞曲》やバッハの《音楽の捧げもの》のリチェルカーレを編曲したウェーベルンを浮かび上がらせることでもあるのだろう。モダニズム的な発明——たとえば無調や十二音技法――ではなく、そこで換骨奪胎された古典的な形式——たとえば変奏曲――をクローズアップすること。

カンブルランの手にかかると、ウェーベルンはもはや怖がる必要もない古典的な作曲家であるかのような様相を呈する。《パッサカリア》はまるでブラームスの《交響曲第四番》の第四楽章のように聞こえてくる。形式が内容と融合していることを、知識として充分に把握できていなくても、音楽としては余すところなく愉しめる。

頭で理解することを要求しない、感性的に美しいゲンダイオンガク――それがこの定期演奏会のプログラミングのポリシーだったのかもしれない。

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日本初演となるシン・ドンフンの《ヴィオラ協奏曲「糸の太陽たち」》は、献呈者であるベルリンフィルのヴィオラ奏者のアミハイ・グロスがソロを務める。輝かしい鉄琴の打撃音とともに始まったヴィオラのソロは、ヴィオラならではの中低音(C線とG線)を存分すぎるほどに長々と鳴らしていく。だからこそ、やっと絡んできたオーケストラの音は、ヴィオラのソロの後景になるというよりも、主役のヴィオラの有機的な一部であるかのように取り込まれる。音量のうえではヴィオラを圧倒することがあるとしても、音響としてはあくまでヴィオラという核に寄り添い、しかし、従属するというわけでもなく、ひとつに融合していく。

シン・ドンフンの作風は、雑にまとめれば、ポスト・モダン的ということになるだろう。ここには「引用」的な要素がふんだんにある。リヒャルト・シュトラウス的な豊饒な響きもあれば、アルバン・ベルク的な批判的な鋭さもある。ワルツのリズムをあざとく利用するというしたたかさもある。「前衛らしさ」の演出とでも言えばよいだろうか。四分音のような非調性的な要素を軸としつつ、要所要所では調性的な響きを味付けに使う。オーディエンスが耐えられるリミットを探り、ぎりぎりのラインを狙ってくる。

それが賢しい日和見な態度に思われることは否定しない。しかし、「ゲンダイオンガク」として絶妙なラインと戯れる作品を出してきた作曲家のクレバーな商業主義的な手腕を無碍に否定すべきでもないように思う。

 

商業主義と芸術至上主義、オーディエンス・フレンドリーと作曲家中心主義といった解消不可能な対立のなか、デュティユーは特異なポジションにあるように思う。デュティユーの音楽は決してわかりやすくはないものの、その美しい響きは直観に訴えかけてくる。音楽理論などわからなくても、実演に接するだけで、作品の生の力が伝わってくる。

たとえば《瞬間の神秘》の冒頭は、滑らかなガラスのような、硬質でありながらその手ざわりは不思議なまでに柔らかいという、現実にはありえないような感触を喚起する。

1916年生まれのデュティユー(2013年没)は、1908年生まれのメシアン(1992年没)と同時代を生きたけれど、メシアンの華やかなキャリアに比べると、デュティユーのそれは遥かに地味に感じられる。けれども、両者のあいだには何かしらの共通性があるようにも思う(たとえば、メシアンの《われ死者の復活を待ち望む》とデュティユーの《メタボール》における、使用楽器をあえて限定すると言う発想)。カンブルランの先生のひとりであるセルジュ・ボドがメシアンとデュティユーの両方を録音していたことを思うにつけても、ふたりは排他的な存在ではなかったのだろうと思う。

圧巻だったのは《メタボール》のラスト。全オーケストラが最強音でかき鳴らされる。それがあまりも圧倒的なので、音楽のバランスが崩れるとしても、もっともっと鳴らしてほしい、ホールをその音響で爆破させるほどに炸裂させてほしいと思われたほどだった。このような暴力的な欲望は、やはり、実演でなければ感じられない代物ではないかと思う。

 

指揮者にしてもデュティユーは会心の出来だったのではないか。終演後、オーディエンスの拍手に応えるなかで、各楽器の吹き方弾き方をノリノリでパントマイムしつつ、オケの面子を讃えていた指揮者の姿は、純真なまでに熱心なものだったからこそ、いっそう信じられるように感じられた。