大学、大学院時代と三鷹市に住んでいたけれど、買い物は吉祥寺だったし、図書館もそう。アーケードのある駅前商店街サンロードから少し外れたところにある図書館が、RCAの白黒のジャケットのトスカニーニのCDとの出会いの場だった。ここで『名作オペラブックス』やレコード芸術の『名曲名盤』やいろいろなムック本を立ち読みして(いま覚えば、借りればよかっただけなのに、なぜか当時はその考えが浮かぶことさえなかった)、ディスク・ユニオンやレコファンに立ち寄ってCDを物色するというのが日課だった。
武蔵野市の図書館には本当にお世話になった。吉祥寺図書館にあった『不思議の国のアリス』のペーパーバックは初めて通読した英語の本だったと思うし、その後、『ナルニア物語』のペーパーバックも借りて全巻読んだはず。中央図書館には、卒論、修論のための文献を借りるために毎週末のように自転車で訪れていた。
にもかかわらず、中央図書館向かいの文化会館に足を踏み入れたのは、今回が初めてになる。というよりも、今回のコンサートに来たのは、期限遅れと言うのすら憚られるほどの宿題をいまさらながらでも取りに行きたいという気持ちからだったのかもしれない。
武蔵野市民文化会館と言えば、クラシック音楽界隈では、青田買いが上手いというか、実力派だけれど一般人気はまだそれほどではないというような海外奏者・団体を引っ張ってくることで有名だ。文字主体の煽り文句が踊るチラシも。今日、ホールに置かれていた他のチラシも見ていたら、公演日は平日夜が多い。アーティストのスケジュールが空いている日をブッキングすることで、招聘費を削っている部分があるのだろうか。
ツェートマイヤーの演奏は、協奏曲も室内楽も、CDでそれなりに聞いたことはあるけれど、そのわりには何か明確なイメージを持てないでいた。きわめて高い技術の持ち主で、そのレパートリーは古典から現代まで多岐にわたる。分析的な演奏という印象は受けるけれど、度を越して分析的という感じでもない。適度に理知的。良く言えば控え目で上品、悪く言えば印象に残らない薄味。
ステージ上のシュトゥットガルト室内管弦楽団はまさに「室内」的だ。最初のメンデルスゾーンの弦楽器編成は4-3-3-3-1。ホール自体は「市民文化会館」としてよくあるタイプで(と言っていいのかわからないけれど、実家のある自治体の市民文化会館が同じようなステージだったことを思い出した――台形型に両脇と天井に反響版がある)、ホールトーンはかなり弱いのかもしれない。音としては正直物足りない。
モーツァルトのヴァイオリン協奏曲はツェートマイヤーの弾き振りだが、ソロ部分だけではなくオーケストラ部分も弾いているようだ。ソロが始まるまではオーケストラを向いて弾き、ソロが始まる直前で客席を向く。小人数の編成と相まって、協奏曲というよりは、コンチェルト・グロッソという感じがする。ソロはオーケストラから独立するのではなく、その一部と化している。たとえカデンツァで丸裸になる瞬間でも。
ツェートマイヤーのモーツァルトのリズムやテンポはメトロノーム的ではなく、ところどころで伸び縮みする。この身振り的な自由は古楽からの影響だろう。書かれたもの(楽譜)は必然的に均一化されている。小節線に落とし込むということは、音楽のどの瞬間であろうと、4拍は4拍、4分音符は4分音符という等価性を受け入れることにほかならない。ツェートマイヤーはそのような画一性に全面降伏しない。
その一方で、ノイズ的な音の活用は、現代音楽から逆輸入された手法なのはずだ。彼のテクニックなら、苦もなく滑らかに弾けるはずなのに、あえてアタックをきつくして弓と弦の接触音を出したり、あえて上滑り気味になるように弓圧を減らし運弓を大きくしたりする。ここには仕込まれたほころびがある。
ツェートマイヤーが作曲もするというのは寡聞にして知らなかったけれど、ということは、カデンツァも自作なのだろうか。あたかもその場の即興であるかのようなライブ感がある。前半のアンコール曲は自作のヴァイオリンとチェロのロンドで、左手が弓に触れそうなほどの超高音を事も無げに披露する。
後半最初の自作もそうだけれど、ツェートマイヤーの曲は弦楽奏者ならではのものだろう。おおざっぱな方向性としては、ポスト・ウェーベルン的。ミニアチュア形式のシリアスさ。曲自体は切り詰められたように短く、音楽は圧縮されている。ピチカートの箇所、ボーイングの箇所がはっきりと切り替わる。動機展開は初聴では到底追いかけられないけれど、形式自体は古典(ロンド、パッサカリア、ブルレスケ、コラール)を本歌取りする。しかし、その根本原理は、弦楽器の生理を踏まえることであり、だからこそ、音楽として上手く〈鳴る〉。
超一流のソリストが室内オーケストラを率いてモーツァルトを演奏した例はいくつかある。チェリストのカザルス、ヴァイオリニストのヴェーグ。自分の楽器を基点にするかどうかで言えば、カザルスは指揮者的に、ヴェーグはヴァイオリニスト的に振る舞っていたように思う。ツェートマイヤーによる29番の演奏はヴェーグ路線ではあったけれど、それとも一線を画するものだった。
ツェートマイヤーの指揮は、控え目に言っても、上手くない。細かくキューを出すわけではないし、正確にリズムを刻んでいるわけでもない。まさに身振り的なもので、奏者が思わず体を動かすような指揮であり、揃えるための手段ではない。要所要所で呼吸を合わせるための身体動作だと言ってもいいかもしれない。
コンサート後半では弦楽器は5-4-3-3-1まで増強されていたと思うけれど、根本にある室内楽的エートスは変わらない。奏者のひとりひとりが、自身の音が何と重なるのかをきちんと意識しているかのような演奏。ユニゾンであれ、3度であれ、オクターヴであれ、他人の音を実によく聞いている。セカンドヴァイオリンのトップは、ファーストヴァイオリンと頻繁にアイコンタクトを取り、実に愉しそうに弾いている。指揮者に丸投げするのではなく、各奏者が自律的に「アンサンブルをしている」意識が見て取れる。
それは間違いなく、音を聞くだけではわからないことだろう。演奏している奏者の身体を、奏者たちのリアルタイムなコミュニケーションを目にしなければ、見逃/聞き逃してしまうことだろう。視覚情報があればこそ、内声パートの強調や、フレーズ内での大胆なアゴーギクが説得的に響いたのだと思うから。
席はほぼソールドアウト状態だったようだけれど、帰り際に聞こえてきた話では、この公演のチケット販売はなかなか難しかったらしい。
それにしても、観客層がサントリーホールやオペラシティなどとは明らかに違う。付近住民が多いような感じがする。しかし、それは裏を返せば、周辺在住の経済的には余裕のあるリタイア層が多いということでもある。装いがいちいちお洒落だったり、折り目正しかったりする。そして、やはり、若い層はほとんどいない。以前に比べれば増えてきたという話を耳にしたけれど、見たところ、40代の自分より若そうな聴衆は数えるほどしか見つからない。
帰り際、サンロードを通り抜けた。商店街が依然として元気なのは喜ぶべきことだけれど、個人商店は減り、チェーン店が増えているように見えた。
付記1。ツェートマイヤーは前半は黒のスタンドカラーのシャツに黒のスラックス、後半は白いシャツに着替えて、黒のノーカラージャケットを羽織っていた。なで肩なのか、ジャケットがいまひとつ似合っていない気がした。
付記2。ツェートマイヤー(1961生れ)がやっていることは、どうしてもギドン・クレーメル(1947生れ)がやってきたこととダブる。古典も現代もこなすヴァイオリン奏者が、室内楽や室内オケに関わっていくという流れ。ただ、作曲者というもうひとつの顔を持っている点では、ツェートマイヤーのやっていることはあまり前例がないとは思うけれど。