うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

ポスト・コロナ時代のオーケストラの響き:室内楽的な水平性、マスとしてのまとまりの希薄さ

プルト」という単位は過去の遺物となってしまうのだろうか。

ここで弦奏者は、2人1組で譜面をシェアするのではなく、1人ずつ独立した譜面台を使っている。ひとりで譜めくりも演奏もこなさなければならないからだろう(プルト制であれば、ひとりが弾き続けるなか、もうひとりが譜面をめくることができた)、パート自体が完全な休みとなる箇所で譜面をめくることができるように、バイオリンはかなり横長の変則的なパート譜を使っている。

音源ではいまひとつわからない部分もあるけれど、このように奏者ひとりひとりの距離を広くとる空間配置だと、その音は、室内楽とオーケストラの中間のようなものになるのではないだろうか。

パートがパートとしてまとまるには、ある程度の距離的な近しさが必要だ。互いの音を聞き合わなければならないから。

そして、密集した配置のオーケストラでは、個々の奏者とオーケストラ全体の音は、必然的に、媒介的で間接的な関係を切り結ぶことになる。その他大勢にすぎない一弦楽奏者は、パートリーダーというハブを介して全体や指揮者につながることになる。序列的な上下関係が前提にある。

しかし、ここでは、奏者ひとりひとりがいわばソリストに近いようなかたちで、同じパートの奏者とつながり、指揮者とつながっているようになニュアンスを感じる。奏者間の関係が、奏者と指揮者の関係が、はるかに水平的で個別的なものになっているような感じがする。

もちろんそれでよりよい音楽になっているのかというと、さてどうだろう。

終結部のハ長調は、まさに、マスとしてのオケの音を前提とした音楽だ。個々の音が、足し算ではなく、掛け算のようにふくれあがる音楽だ。ソーシャル・ディスタンシングと原理的に相反する音楽。

ここで指揮者のサロネンはかなり遅いテンポを採り、室内楽的な繊細さを演出している。アプローチとして成功していると思う。けれども、マスになることで倍加された音というよりも、個々の音の離散的な集合という感じに聞こえてしまう部分がどうしてもある。

ストラヴィンスキーは、第一次大戦直後の人にも物にも事欠く時代のなか、戦前の大編成とは打って変わった独特の小編成からなる中品――旅芸人の音楽家集団を想定したような、雑多な編成による室内楽的作品――を発表していくが、アンサンブルの空間的配置やその音響性は、それぞれの時代の物理的状況によって条件づけられている部分がある。

奏者たちが距離を保ってアンサンブルすることがデフォルトとなった時代では、音楽の期待の地平がラディカルに変容していくのだろうか。

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