カール・ヴァルザーのことは何も知らずに観にいって、それなりに愉しめた展覧会。ビラのビジュアルに用いられている、本を手に持った淑女の絵は、肩透かしと言いたくなるほどに小さく――大きな肖像画かと思いきや、小さく控え目な習作――、その点では、羊頭狗肉的な広報の問題を挙げたいところではあるけれど、全体としては、いろいろと考えるべき事柄を提供してくれていたように思う。ただ、そのすべてが、展示物それ自体から触発されたものではないところに、この展覧会の語りにくさがある。
1877年生まれで1943年没のスイス人カール・ヴァルザーは、たとえば、1874年生まれで1951年没のオーストリア人アーノルト・シェーンベルクの同時代人になる。彼らは、先人たちから大きな影響を受けつつ、そこから脱却しようとした世代でもあった。画家にして挿絵画家であり、舞台美術家でもあったヴァルザーだが、20代の絵は、贔屓目に好意的に捉えても、クリムト(1862-1918)の亜流のように映る部分がある。細い線で密に描かれた茎や葉の上にややくすんだ原色で彩られた小さな花々。縦に引き伸ばされたかのような林、緻密にパターン化された葉、妖しくも美しい夕暮れ。
《森》1902–03年 新ビール美術館(以下、絵の引用は公式ウェブサイトより)
Frau auf Blumenwiese. 1910(Wikipediaより転載、この展覧会には出品されていないが、クリムトの影響が強く見てとれる絵なので引用しておく)
本展覧会はヴァルザーの再評価の試みで、そのために彼の営為の全貌を捉えることを目指しているようだが、ここで目玉となるのは(すくなくとも日本の鑑賞者にとっては)、彼が20世紀初頭に日本を訪れた際に目撃した祭りや舞台のスケッチだろう。展覧会のキャプションによれば、目の前で元カノが自殺したことで神経を病んだヴァルザーに、ドイツの出版社が、紀行作家とともに日本を訪問することを提案したのだとか。
ヴァルザーは京都府の宮津に長期滞在し、そこで出会った芸妓や舞妓、歌舞伎俳優のスケッチはあまりにも鮮やかな色合いなので、どこかバレエ・リュスの衣装を思わせる。仄暗い画面から妖しく照らされて浮かび上がる情景は、エキゾチックであると同時に写実的なのだろう。というよりも、この妖艶さはおそらく、外からの視線だけが捉えうるものではないかという気がしてくる。
《祇園祭、京都・八坂神社》1908年 新ビール美術館
《京都先斗町の鴨川納涼床》1908年 ゴットフリート・ケラー財団(新ビール美術館寄託)
ここにはたしかにヴァルザー独自の色彩感覚や造形感覚がにじみ出ているし、彼の過去の画風が透けて見える。日本庭園のスケッチには象徴主義的なニュアンスがあり、枝は実際以上に曲がりくねっているような感じがする。控えめながら、彼の美意識によって現実は描き変えられてもいる。
面白いのは、パフォーマーの身体になると、どこかデッサンが狂っているというか、重心を見誤っているのではないかという印象を受けること。ひょっとすると、ヴァルザーは、着物の下の日本的な身体のあり方が、うまく想像できなかったのではないかという気もしてくる。能楽師の横姿の尻の出っ張り方、背筋の伸び方、力の入り方は、いまひとつ不器用。
《歌舞伎の女形[阿古屋](《芝居の一場面》のための習作)》
ただ、芸術家としての彼の本領は、写実ではなく、デフォルメやカリカチュア的な類型化にあったのかもしれないという気はする。彼が描いた挿絵は、ユーゲントシュティール的な繊細さに、強すぎない毒が混ざっており、クリシェ的でありながら、独特の面白さがある。ただ、ビアズリーからの影響は明白でもある。
《『ロミオとジュリエット』乳母》1907年 新ビール美術館
《『ラ・ボエーム』学生と少女たち》1911年 新ビール美術館
(彼は壁画も多く手がけたそうで、映像で代表作が示されていたけれど、そちらにしてもデフォルメ的な作風だった。ただ、こちらでは、描き出された身体はむしろ面的なものに、ブロック状のシェイプに還元され、どこか彫刻的でプリミティヴなイメージに仕上げられている。青年期の象徴派的な細やかさと比べると、作風の変化に驚かされる。)
Wandbild für das Hallenbad City in Zürich 1941(Wikipediaより転載、この壁画はたしか映像には含まれていなかったはず)
おそらくこの展覧会では依然として語りきれていないものが多々あるのだろう。作家である弟のローベルト(ベンヤミンやアーレントが高く評価していた)とは共作関係にあったものの、旅行記に挿絵を入れないという弟の希望を踏みにじる出版社の意向に応じて挿絵を描いたことで兄弟の仲にヒビが入ったという(Wikipediaで知ったのだけれど、散歩を愛したローベルトもまた神経を病み、精神病院に入っていた――彼らの兄のひとりは自殺し、もうひとりは精神病院で亡くなっており、母もまた精神疾患を抱えていたようだ)。
それから、ヨーロッパの政治状況が不安定になっていった30年代にヴァルザーがどのような態度を取ったのかも気になるところではある。展示物がヴァルザーの前半生に集中しており、後半生がいまひとつ浮かび上がってこないきらいがある。
というわけで、ヴァルザーを「異才」と呼ぶのがふさわしいのかは、いまひとつ納得しかねるところ。「世紀末の昏き残照」という副題は、日本滞在中のスケッチや、滞在経験に想を得て描かれた絵画にはよく当てはまるけれど、それはヴァルザーの多面的な仕事の一面にすぎないのではないかという気もするというか、ヴァルザーの「異才」なるものを「世紀末の残照」とまとめてしまうのは、彼が時代遅れを引きずっていたかのような印象を与えるような気もする。彼の正当な再評価を、この展覧会自体が阻んでいるようなところがありはしないだろうか。







