うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

20251112「円山応挙——革新者から巨匠へ」@三井記念美術館を観る。

円山応挙という名前はもちろん知っているけれど、代表作を挙げろと言われたら困ってしまうところだ。書き散らしたような素描から、素人仕事の蒔絵まで、精密な写生から、ジャンル的なクリシェまで、かわいらしい動物から、凛とした自然まで、応挙の仕事を幅広くカバーしたこの展覧会を見ても、いまひとつ応挙という絵師の凄さが腑に落ちていない自分がいる。

www.mitsui-museum.jp

本展覧会の監修者の山下裕二は、名実ともに18世紀を代表する画家である応挙が、近年、「伊藤若冲をはじめとする「奇想の画家」たち」の影に隠れてしまっていることを認めたうえで、「18世紀京都画壇の革新者」であったのは応挙にほかならないのだと言う。応挙の絵は、「21世紀の私たちから見れば、「ふつうの絵」のように見える」かもしれないが、「18世紀の人たちにとっては、それまで見たこともない「視覚を再現してくれる絵」として受けとめられた」とのこと。

応挙は鋭敏な眼を持っていたのだろう。彼がスケッチした花は驚くほど正確で、花びら一枚一枚まで、葉っぱの虫食いまで、まったく妥協なく描き込まれている。主観を排した線と色使いであり、あまりに客観的なので、ブラインドで見せられたら、時代どころか、日本の画家によるものなのか、海外の画家によるものかすら、言い当てられないだろう。

日本には生息していなかった虎を描くために、虎の毛皮を実物大でスケッチしたものが展示されているが、そちらについても、同じことが言える。トレースしたかのような、写真的な模写。

しかし、興味深いことに、実際の絵においては、客観性よりもジャンル的慣習のほうが前面に出てくる。虎の毛皮はリアルだが、体つきや骨格は猫のようでもある。その結果、応挙の絵は、写実的なデフォルメともいうべきものになる。

その意味で象徴的なのは、最初の方に置かれていた眼鏡絵だ。これは、左右反転し、遠近法を強くした絵を、45度傾けた鏡越しに見ることで、奥行きが強調された、立体的な像が得られるというものだが、応挙がキャリアの最初期に得意としたものだという。眼鏡絵は、正確な写生と、的確な操作の両方を必要とするものなのだと思う。絵だけみると不自然だが、鏡に映った像はリアルになる。この三重のプロセスーー現実を正確に写し取り(世界→応挙)、あえて不正確に表現することで(応挙→絵)、観る者にリアリティを感じさせる(絵→鑑賞者)ーーが、応挙の画業の根底にあったように見える。

とはいえ、デフォルメは応挙特有のものではなく、中国の山水画とも共通する東アジア的な現象であったのだとは思う。そこに何か応挙の独自性があるとすれば、デフォルメのなかで写実性の領域を拡大したところになるのだろうか。

その一方で、応挙はデフォルメに長けていた部分もあったようだし、新たな類型の創作者でもあったらしい。髪を振り乱し、右手を懐に入れ、足がない幽霊というイメージは、応挙を発祥とする説があるのだとか。ふわふわとした子犬は、実在する犬を写し取ったようでもあれば、そこからイデア的なものを取り出して、「キュートな子犬」としてアイコン化したかのようでもある。応挙の描く市井の人々は、リアルであるのにテンプレ的でもあり、まさに超時代的なところがある。

応挙の作品のなかで唯一国宝に指定されているという「雪松図屏風」は、白い紙のうえに金泥と墨で描かれており、雪は下地をそのまま残すという大胆な逆転の発想がある。屏風という折り曲げてこその媒体で、デフォルメされているからこそハイパーリアルな景色を体験することができる。

三井記念美術館は建物自体が鑑賞対象であるとも言える。西洋風の重厚な板張りの部屋は、近代化が西洋化であった時代を想起させずにはおかない。

ウィークデイの中日の昼間ということもあるだろうけれど、客層はわりと特殊な感じ。リタイア層が多いのは当然として、和服姿の人をちらほら見かけたのは土地柄だろうか。数点は写真撮影可能だったのだけれど、写真を撮る人が続出だったのも、ちょっと特殊な感じがした。