うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

暴力が不平等を解体する:ウォルター・シャイデル、鬼澤忍・塩原通緒訳『暴力と不平等の人類史――戦争・革命・崩壊・ 疫病』(東洋経済新報社、2019)

暴力がもたらす平準化

歴史を統計的に見ることで、物理的現象のように扱うことで、くっきりと見えてくるパターンがある。不平等の進展こそが石器時代から21世紀までの歴史の常態であること、科学技術の発展も産業構造の変化も不平等を増大させてきたこと、そのなかで均等化や平準化をもたらす巨大な要因として機能してきたのは暴力であったことだ。

こう言ってみてもいい。平等化は自然に起こるものでもなければ、社会的政治的に狙った通りに起こせるものでもなく、むしろ、起こってしまうものである。国のすみずみにまで、国民ひとりひとりにまで、避けようも防ぎようもないかたちで、襲い掛かってくる集合的な暴力――戦争、革命、崩壊、疫病――が、長年にわたる不平等によって確立された不平等の構造(たとえば、社会の上層1%が国の大半の富を所有するという資本の不均衡)を平準化し、そうすることで、不平等の構造によって現実の不平等がさらに深まっていくという負の連鎖(たとえば、金持ちはさらに金持ちになり、貧乏人はさらに貧乏になっていくというスパイラル)に終止符を打つのだ。

この意味で、邦訳タイトルは正確さを欠いている。邦訳では原語タイトルThe Great Leveler: Violence and the History of Inequality from the Stone Age to the Twenty-First CenturyがThe History of Violence and Inequalityであると誤解されてしまう。著者の主張を考慮に入れれば、暴力こそが「均すものLeveler」であることは明白であり、その意味では、暴力と不平等の歴史はむしろ緊張関係にあると言うべきだろう。一方に、不平等を有無を言わせず解体に追いこむ暴力があり、他方に、不平等の構造を深化させていく歴史の傾向がある。もちろん暴力が不平等を保存してきた面があることは事実であるし、それは決して忘れるべきでもなければ軽く取り扱うべきことでもないけれど、シャイデルの議論で取り上げられる暴力とは、不平等の構造を解体する否定的な力のことである。この邦訳だと、あたかも暴力が不平等の原因であるかのように、暴力と不平等のあいだに共犯関係があるように見えてしまうが、シャイデルの議論は、逆である。暴力こそが、人類史に平等をもたらしてきたのである。 

シャイデルの描き出す統計的な歴史物語とは、次のようなものだ。不平等という持続する傾向があり、そこに、暴力という短期的な衝撃が加えられる。すると、既存の社会構造や経済構造に平等化の契機が生まれ、限定的ながら、不平等の構造が均される。しかしながら、平等化の方向に均された不平等の構造は、時間が経つとふたたび不平等を蓄積していく。長期的な不平等の持続と、短期的な平等化の衝撃、この二つの力が、人類史のリズムを刻んでいる。  

 

プレーンでクリーンでニュートラルな科学的歴史記

シャイデルがこの物語を描きだすために利用するのは、統計的数字である。こうして彼は歴史的出来事の細部に拘泥することなく、世界史を縦横無尽に引用し、自らの主張の論拠を提出していくし、そこで歴史はいわばデータベース的に扱われる。古代中国と戦後日本と中世ヨーロッパとが、並列的に持ち出される。 

シャイデルの統計的ナラティヴに歴史的偉人の居場所はないし、2回にわたる20世紀の世界大戦のような世界史的出来事にしても、経済構造や人口構造の変化をもたらした要因以上の扱いは受けない。ヘイドン・ホワイトは『メタヒストリー』のなかで、19世紀の歴史学者たちの言説を分析しながら、歴史「記述」historiographyは必然的になんらかの物語祖型に依拠することになると論じたが、シャイデルの歴史物語はある意味でそうした祖型を持たない、プレーンでクリーンなものだ。

シャイデルにとって、不平等の持続的進展はいわば右肩上がりのグラフにほかならず、均等化という短期的断絶はグラフの描き出すシェイプの一大変化でしかないからだ。そこには、悲劇的諦観も、英雄的興奮も、書きこまれてはいない。すべてはまるで物理法則のようなものであり、シャイデルが興味を抱くのは、収斂する文明のパターンであるかのようだ。

事実、シャイデルが描き出すのは歴史のパターンである。それはもしかすると、これまで歴史家が感じてきたものであり、具体的な政策であるとか歴史的事件を調べることで、具体的に裏づけようとしてきたものだったのかもしれない。しかし、シャイデルはそれを、膨大な量の統計的データのみを――というとさすがに語弊があるが、ここではデータこそが主役である、たとえそのデータがときおりきわめて不正確であり、不充分であり、通史的比較史的に扱うには不適切かもしれないとしても、シャイデルはそれらの方法論的問題をすべて承知のうえで、なお、データ分析をみずからの研究の根底に据えるのである――比較的に検討することで、数学的に実証してみせた、と言ってもいいだろう。

シャイデルの手つきは、歴史家のものというよりは、経済学者のものに近いのかもしれない。彼が見るのは具体ではなく、総体である。個人ではなく、集団である。点ではなく、線や面や形である。そして、数字で見ることで、時代にも場所にも拘泥することなく、人類史一般を論じることができるのである。

シャイデルの方法論的な立場は、文学研究者フランコモレッティが提唱した「遠読」と比べることができるだろう。モレッティは「世界文学への詩論」のなかで、マックス・ウェーバーを引用しながら、理論とは、概念と概念の関係(人為的な思考物同士の関係)を考えるものであって、具体的な物と物との関係についてのものではないと述べ、現代のデジタル時代においてわたしたちは、少数のテクストを精読 close readingするだけではなく、膨大な数のテクストをビックデータ的に分析するべきである――それこそ、彼が遠読 distant readingと呼ぶものである――と挑発的提言をしている。

シャイデルの手つきにはモレッティの手つきと似たところがある。というより、彼らの仕事は、デジタル・ヒューマニティーズという最近の傾向のなかで捉えられるべきものだろうか。シャイデルが峻別するのは、具体的な歴史的出来事と、そこから抽出される数字である。シャイデルは後者に力点を置くことで、ある時代のある場所の数字を、別の時代の同じ場所の数字であるとか、同じ時代の別の場所の数字、別の時代の別の場所の数字との関係を、理論的に考えることを可能にするのである。

 

因果論なのか、後付けなのか

しかし、このように数量的に歴史を見る立場は、いくつかの疑問を掻きたてるだろう。たとえば、これは原因と結果の説明なのか、それとも、既に起こったことに後付けの解釈を与えているだけなのか、という疑問である。起こったことだけを考えており、反実仮想的な「起こらなかったこと」を完全に排除してしまっているのではないか、という疑問である。暴力があったから平準化が起こったのか、実際に起こった暴力がなかったとしても、実際に起こったものと類似の平準化が作用したのではないか、という疑問である。シャイデルはこの問いにたいしてきわめて自覚的であり、本書のなかで幾度もそこに立ち戻っていくが(とくに14章において)、彼としても明確な答えは出ていないようである。少なくとも、彼は自らの分析から明確な因果関係を引きだすことについて、一貫して慎重な態度を保っている。

ここからべつの疑問がわいてくる。不平等が歴史の常態であり、非暴力的な平等化の成果は限定的であるという知見が、これまでの人類史から引き出せるとして、それは人類の未来にも適応することなのか。こう問い直してみてもいい。もしこれまでの人類史において、偶発的な出来事によって平等化がもたらされてきたとしたら、現在の社会をより平等な方向に変えていくために、わたしたちができることはあるのか。

シャイデルはこの問いにもきわめて自覚的である。だからこそ、本書の最終部にあたる7部(15章と16章)がこの問題に捧げられているのだろう。しかしここでも、シャイデルは考えあぐねているようだ。というのも、彼の議論に従うなら、大規模な均質化は暴力的な出来事――戦争、革命、崩壊、疫病――によってしかもたらされえないし、それらが起こる可能性について、シャイデルは懐疑的であるようだ。その一方で、平和的な平準化の可能性――教育、スキルトレーニング、税制改革、政治介入―は限定的なものに留まるだろう、というのがシャイデルの暫定的結論である。

 

過去において作用してきた暴力という平準化の力を未来において行使すべきなのか

統計的手法によって人類史一般を縦横無尽に比較してみせたシャイデルにしても、自らの歴史分析の現実的有用性を語る段になると、ひどく慎重になるらしい。

それは当然かもしれない。というのも、シャイデルの分析からは、まったく相容れない現実的帰結を引きだすことができるからだ。一方において、これは、現実における不平等の構造や連鎖を解体するために払う代価がいかに大きいのかの例証である。そこから引き出されるのは、保守的な、現状維持の態度だろう。しかし他方において、これは、革命のための論拠にも使えてしまう。現状を変えるには、漸近的でパッチワーク的な改善策では不充分であり、ラディカルで全面的な変革こそが唯一の処方箋であるという議論だ。そこから引き出されるのは、暴力革命をも厭わない過激な態度だろう。シャイデルは現状の不平等の問題を明晰に理解し、かつ、それが暴力的な手段によってしか根本的には変わらないかもしれないということを意識したうえで、暴力的平準化ではない別の可能性を模索し続けているように見える。

だから、シャイデルは本文にして550頁超、注だけで130頁以上になる大部の著作を、警告のトーンで締めくくっている。それを健全な中庸さとみるか、慎重な臆病さとみるかは、判断が分かれるところかもしれないが、どちらの解釈を取るにせよ、そこで、自らの分析が抉り出してしまった歴史の無慈悲なパターンと歴史家が誠実に対峙しようとしていることだけは間違いないだろう。

何千年にもわたり、歴史は、不平等の高まりあるいは高止まりの長丁場と、散在する暴力的圧縮を繰り返してきた。1914年から1970年代あるいは80年代までの60~70年間に、世界の経済大国と、共産主義体制に屈した国々の双方が、歴史上最大級の大幅な平準化を経験した。その後、世界の多くの地域が次の長丁場となりそうな期間に突入し、継続的な資本蓄積と所得の集中に回帰した。歴史的に見れば、平和的な政策改革では、今後大きくなり続ける難題にうまく対処できそうにない。だからといって、別の選択肢はあるだろうか? 経済的平準化の向上を称える者すべてが肝に銘じるべきなのは、ごく稀な例外を除いて、それが悲嘆のなかでしか実現してこなかったということだ。何かを願う時には、よくよく注意する必要がある。(563頁)