うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

遠い過去の恩に報いる義務:劉慈欣(リウ・ツーシン)「神様の介護係」、ケン・リュウ編『折りたたみ北京――現代中国SFアンソロジー』(早川書房、2018)

遠い過去の恩に報いる義務はあるか

人間文明に宇宙人という起源があったとしたら、そして年老いた宇宙人が地球にやってきて、人間文明の創造主であることを口実に、20億人にもおよぶ「神」の介護を求めるとしたら。劉慈欣の「神様の介護係」は、この壮大な奇想を肉付けした短編だ。現代の高齢化社会と、高齢化にともなって必ず表出してくる介護問題のことを思い浮かべれば、この物語が実はきわめてタイムリーでアクチュアルなものであることが見えてくる。しかし、ここで主題化されるのは、老人介護という具体的な問題の根本にある問いだ。生産性のない厄介者の老人をなぜわざわざ介護しなければならないのか、という問いである。

過去に受けた恩は未来において報いなければならないのか。なるほど、現在の繁栄が過去の恩恵のうえに成り立っている場合は、そうかもしれない。だが、もし現在を生きる人びとが、過去の恩恵と現在との連続性をうまくイメージできないとしたらどうか。過去の恩はあまりに遠い過去のもので、現在と関係ないように思われるとしたらどうか。

神々は35億年前に地球を訪れ、進化の種を残していったと言う。しかし、高度な文明を誇った神々も機械に頼るうちにすっかり知能は衰え、いまや二次方程式すら理解できないほどである。亜光速で運行する宇宙船は老朽化し、神々にはそれを修理する手立てはない。科学技術はブラックボックスと化している。神々が宇宙を旅する高度な文明の末裔であり、地球をいまのかたちに作り始めた立役者であることは間違いないし、地球がこの人々に負うところが甚大であることも間違いないらしい。しかし、だからといって、いたわってくれという神々を、全世界の各家庭が受け入れなければならないのか。ひと家族につき神様ひとりという平等な割り当てが妥当なのか。

 

介護と退化

介護問題がひとつの軸をなしているが、そこには文明の退化という問題が分かちがたく絡み合っている。神の介護が必要になるのは、数千年の寿命を持つ神の肉体が老いたという生物学的な事実のせいだけではなく、神の文明が老いたという社会的な現象のせいでもあるからだ。社会集団を可能にすると同時に、社会集団によって体現される文化や文明が老いるというのは、老いという生物学的なカテゴリーを社会学的なものに誤って当てはめた結果生まれてくる錯誤ではないかと思う部分もあるけれど、文明の誕生と死滅という循環論は、ヴィーコからノルダウからシュペングラーまで、西洋思想のなかでは根強い人気を保っているし、その事情は東洋思想においても同じだろう。

介護と老化は切り離せない。とくに社会学的なものの老化ということになれば、そこでクローズアップされるのは、当然ながら、身体的な衰えではなく精神的な衰えである。いまいるところに安住せず、前へ外へと、いまとはべつのところに出発していく冒険精神の衰えである。 

介護と引き換えに地球に引き渡した神々の科学技術のデータベースは、人類に大きな希望を与えた。人類が神々の文明に追いつく可能性を与えるかもしれないと思われたからだ。だからこそ、この大きな贈物と引き換えの介護という取引は、割の悪いものではないように感じられたのである。しかし、それがあまりに高度過ぎて現行の人類には理解できない代物であり、そこで説明されている技術を実現するための資源も欠けているということが判明すると、当初の歓迎ムードは反転し、神々はますます厄介者扱いされ、虐待禁止の法律が全世界的に施行されたにもかかわらず、虐待の対象にすらなり、家出した神々のコミュニティすら出現するようになる。

 

神を殺すか、神が死ぬか

介護問題に出口はない。介護対象の神を殺すか、神が死ぬか、その二者択一である。神を殺したくないと思うのならば、神が死ぬという出口によって物語を終わらせるしかない。介護の終わりは、介護される対象の消失しかありえない以上、介護問題は事実上解決できない。しかし、物語は終わらせなければならない。こうして、「神様の介護係」は、介護対象を失くすことで、介護問題そのものを失くしてしまおうとする。

「神様の介護係」は、神を死なせるのではなく、神が自主的に地球から去っていくというエンディングを選ぶ。それはデウス・エクス・マキナの裏返しのような終わり方だ。仲裁のために入場するのではなく、退場することによって、神々は問題を消滅させる。

 

初めて聞く兄弟たちとのこれからの争い

しかし、退場する神は、まったくべつの問題を残していく。神々が作った地球以外の子供の存在が明かされるのだ。そして地球の兄弟たちは、より暴力的で侵略的な存在であるという。地球にやってくる前に、神々は兄弟星で同じように介護を求め、ひどいめにあっていた。宇宙船を強奪されたり、人質にとられたり、強迫されたり。ここではすべてが血縁のメタファーによって語られている。親という神、兄弟という別の地球。まるで介護問題は、血縁関係のなかで対処されなければならないかのように。

それはもちろん、現実世界における介護の問題へのコメンタリーなのだろう。親の介護をめぐる兄弟姉妹間の争いである。老親介護の押し付け合いであり、老親介護からの利益をめぐる問答である。しかしここでは、話し合いによる円満な解決という可能性が、最初から排除されている。

負けないためには相手を滅ぼすしかない、神々はそうほのめかす。ここで皮肉に思われるのは、攻撃性という特性が、神という親的存在から受け継いだものではないらしいこと、それから、地球の兄弟たちの攻撃性にたいする防衛反応として先制攻撃が奨励されているらしいことである。人類の攻撃性は、神の手から外れたところで進化したものなのだろうか。あつかましいのは、遠い遠い過去のことを持ち出し、恩を売り、人類に引け目を感じさせようとする神々かもしれないが、すくなくとも神々は物理的な意味では暴力的ではない。

 

介護要求を正当化するために

介護をめぐる深刻な問いかけがここにはある。親子の情のようなものを取り払ったあとに残るのは、ギスギスした人間関係と剥き出しの損得関係だ。介護の安全保障のために、介護される側は、パターナリズムの名のもとに恩を押し売りし、介護をする側に、罪悪感を植えつけねばならないし、そのための仕込みを早いうちからやっておかなければならない。心理的な負い目を相手に与えることによって、介護の要求を後で出来るようにしておかなければならない。

そのためには、飴と鞭の両方が必要になる。だが、そこで与えられる飴――知識や知恵という贈物であれ、遺産という金銭であれ――は、確実な保証にはならないだろう。飴だけが盗まれかねないし、鞭だけで要求をのませるには、身体的な衰えが足かせになる。結局のところ、損得関係を主軸にした関係は、損得関係の悪化によって簡単に崩れてしまう。

 

介護が必要とする他者と外部

介護は必ず助けを必要とする。それは他者依存関係的なものにならざるをえない。物理的にも肉体的にも自らを支えることができない以上、老人は、誰かに面倒を見てもらわなければならない。問題は、この介護者をどこに見出すのか、である。

「神様の介護係」が暗黙の裡に告げているのは、介護役の外注の必要性である。神々の文明は、自分たちの社会の内部に介護者を作ることを目指さなかった。介護をしてくれる機械はいるが、介護を受け持つ奴隷階級は存在しない。その意味で、神々の社会はきわめて平等主義的であるし、だからこそ、老いた神々はみな判で押したように東洋の仙人のような格好をしているのだろう。

しかし、社会の内部が平等主義的に構成されていることは、そうした社会が、社会の外部とヒエラルキー的な関係を切り結ばないことを意味しない。むしろ、内部の平等主義を確保するためにこそ、外部という搾取の空間が必要とされるのである。内部で解決できないことは、外部からのリソースを見つけ出せばいいのだ。ある中国の山間部の家庭に割り当てられた神が、人間の歴史におけるつまづきを語るなか、漢帝国ローマ帝国に言及するのは、その意味で理にかなっている。帝国はまさに外部と内部の力学によって、搾取する側と搾取される側の区別によって、成立している側面が大きいからだ(とはいえ、神が同じところで言及する、漢とローマの二大帝国の接触は、人間文明の歩みを加速させただろうという説は、また別のものであるし、まったく別の意味で興味深い)。

それはあたかも、現実の介護問題も、家族内でまかなうのではなく、家族外に依存させればいいと言っているかのようだ。家族で介護をするのではなく、ヘルパーを雇ったり、介護施設に入居させたり、というように、である。少なくとも神々が試みているのは、そのようなことだ。しかしだとすると、神々と地球人類の関係は、親と子という直系ではなく、やや遠めの親類であるとか血縁ありの養子関係のようなものに近いというべきかもしれない。

「神様の介護係」の根底で肯定されているのは、内と外の意識であり、内と外の線引きから引き出される搾取関係だ。そこから、文明にとっての外に出ていくことの必要性が導き出される。文明は外に出ていくという進取の気風によって成長するが、そうした成長を支えるのは、自己成長の歓びというような無目的なものではなく、未来の介護役の探索という実利的なものである。もちろん、文明の拡大のなかに、プラグマティックなもくろみとは無関係な、ヒロイックで自己犠牲的な物語がないわけではないし、神はそのような勇敢で壮麗な勲をなつかしそうに語るだろう。しかし、そこから、利害関係の計算が完全に抜け落ちることはない。

 

内の問題は外によって解決できるのか 

生物学的な老いがもたらす負担から逃れるためには、帝国を拡げ、搾取可能な外部を作り出すしかない、そのためには、文明の老いをつねに拒否し、進取の気風を養育していかなければならない。「神様の介護係」の地球は、神が去っていった後、そのような課題に直面するだろう。

しかしここで考えてみるべきだと思うのは、外を作り出すことで内の問題をどうにかできるのか、という問いである。外注することで内部の負担を減らすというのはひとつの解決ではあるが、それは結局のところ、問題の先延ばしであって、根本的な解決ではないのではないか。

とはいえ、老年という生物的必然性を内在的に解決することは、はたして可能だろうか。老いを回避できるような医学が近い未来に発明される可能性はある。しかし、そうなってくれば、人口増加という別の問題が出てくるし、生がそこまで長く生きるに値するものであるのかという問題も出てくる。長寿や不死の問題であり、不老不死の問題だ。生体的な長寿からくる問題は神がすでに体験しているし、長寿による神々の文明の退化は、長寿が介護問題の解決にはならないことをすでに示している。

 

ジャンルのイデオロギー

拡大、侵略、搾取、それが「神様の介護係」という物語世界の基底をなしているように思う。しかしこれらの暴力的な性質は、個人的なものというよりは、集合的で歴史的なものだろう。感じ方や考え方のデフォルトの方向性がそうなっているのだ、とでも言おうか。それが作者個人の世界観の表明なのか、現代中国の隠喩なのか、現在の地球の隠喩なのか、それともSFというジャンルに内在する論理なのかは、いまひとつよくわからない。しかし、こうした傾向に異議を申し立て、別の傾向を描き出そうとしたのがアーシュラ・ル=グィンだというのは、よくわかる。劉のSF物語は、その意味で、きわめてオーソドックスな系譜に連なるものであるように思う。

地球から去っていく神が、厄介になった家族に贈物をする。男児が欲しがっていた腕時計型の通信機を送るのだ。そしてそれと引き換えに、彼は高校の教科書――数学、物理、化学――の教科書をもらっていく。時間はたっぷりあるのだから、もういちど学び直し、文明を立て直すことも可能だろう。そうすれば、遠い遠い宇宙の探索に出かけたかつての恋人とふたたび巡り合うこともできるかもしれないから、と。

そこには科学的な知とその可能性にたいする美しい希望が描きこまれている。しかしその希望はどこか科学偏重的であり、ロマンチックではあるが、クリシェ的でもある。壮大な王道であることが悪いはずはないが、王道はつねにオーソドックスなものを支持し、メインストリームをくつがえすような別の可能性をきわめて自然な手つきで排除していくものではないか。このアンソロジーに収められた2つの短編から劉の作風をそう言い切るのは不当であるし、劉の王道主義は単なる保守主義とは別物であることは間違いないと思う反面、物語自体はどこか予定調和の領域に収まっているのではないか――とはいえ、その領域自体はとてつもなく広大であり、それゆえ、読者からすると、あたかも予定調和の外からもたらされたかのように錯覚されるかもしれないが―――という気もしてしまう。