うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

アンサンブルとデモクラシー:模倣と交替、または感応

アンサンブルほどデモクラシーの原理にのっとっているものもない。そこでは、互いに異なる存在たちが、まさにその多様性ゆえに尊重される。本質的に異質な存在が、同じひとつの目的のために、様々な役割を演じる。どれほどちっぽけなパートであれ、たとえほとんど聞こえないような音であれ、無くていいもの欠けていいものは何もない。

ソロと伴奏の関係がいびつになるのは、こうしたデモクラシーの原理が踏みにじられるときなのだと思う。伴奏の音などあってもなくてもいいというかのようにふるまわれるとき、つまり、ソロが暴君や僭主のようにふるまうことを許され、伴奏が軽んじられ、殺されるとき、アンサンブルはその名に値しないものに変質してしまうのだろう。

 

とはいえ、アンサンブルの根底にあるのは、等価性の原理ではないだろうし、交換可能性でもないだろう。演じられる役割の重要度は異なるから、上下関係はある。アンサンブルは根本的に不均衡な関係だ。絶対的な不平等が存在している。

だとすれば、どのような原理がアンサンブルをアンサンブルたらしめるのか。

模倣と交替の原理ではないだろうか。感応の原理といってもいい。ソロと伴奏の関係が主役と脇役のそれであるとしても、両者のあいだで共有されているものがある。旋律、和声、リズムといった要素だ。どちらが先に提示するか、どちらが主に提示するかはといった主従関係は楽譜のうえで確定しているけれども、そこには受け渡しというコミュニケーションもある。ソロが提示したものを伴奏が受け取り、再びソロに返していくというような双方向的な関係が。

単なる反応以上のものだ。影響されることを受け入れることだ。真似ることで自分が変わってしまう危険性に自分をさらすことだ。リスクを共有することで、ともになにかを創っていこうとすることだ。

そうした開かれを拒否している演奏のほうが、安心して聞けることは確かだけれど、スリリングではない。そしてスリリングではないアンサンブルは、おそらく、デモクラシーではない。

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