うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

雑な全体性のむこうにある精神:音楽家としてのダニエル・バレンボイムの音楽

ダニエル・バレンボイムの演奏は微妙に雑だ。彼の音楽は確かに全体性を捉えている。だからとても見通しがよい。旋律が歌っている。抒情性がある。勘所は外さない。しかし、瑕疵がある。

音楽のことを本当によくわかっている音楽家の音楽。バレンボイムによるベートーヴェンのピアノ・ソナタのマスタークラスを見ると、彼の譜読みがどれほど深く、どれほど豊かな音の想像力を持ち、どれほど確かな音楽の構築力を持っているかが、おそろしいほどに感じられる。

しかし、バレンボイムの音楽はどこか詰めが甘い。ありあまる才能に振り回されているようなきらいがある。音のエッジが鈍い。響きが濁っている。どこか洗練されきれていないようなニュアンスを感じる。指揮者としてのバレンボイムの音楽はどこか野暮ったい。

 

バレンボイムの指揮はピアニスト指揮者の良いところも悪いところも完璧に体現している。ピアノは基本的に単音の楽器ではない。同時に複数の音が鳴り響くものだから、ひとつの音の存在感は相対的に低下する。というよりも、音が減衰することを運命づけられているピアノは、オーケストラのダイナミクスと相容れないところがある。複数の音の関係性を両手の指で表現するピアノ奏者は、個々の音を全体との関係において(のみ)捉えるように訓練されているがゆえに、オーケストラの全体性を体現するように最適化されていると言ってもいい。

バレンボイムのピアノ自体にそのような傾向がある。音が薄い。響きが浅い。わずかにミュートがかかっているかのように、すこしくぐもった音がする。鳴りきらないとこがある。響きとしてはこのうえなく正しいし、抒情的な雰囲気はきわめて美しい。しかし、音楽が深く深く沈みこんでいけばいくほど、マテリアルな音の浅さが逆説的なまでに浮き上がってくる。どこか頭脳で弾いているような音がする。身体的な部分が希薄で、肉感的な耽美性に欠ける。音楽としては深いのに、音としては薄い。ピアニストのピアノというよりは、音楽家のピアノなのだ。

バレンボイムの指揮では、譜面上の音が巧みなバランスで正確に配置されているからこそ、個々の楽器の固有の音色の魅力が引き出されきっていないことに気づかされてしまう。音の「あいだ」の関係はこのうえなく適切であるにもかかわらず、音「それ自体」は個々の奏者に委ねられているようなところがある。楽譜の構造がマクロなレベルで全体的に捉えられているからこそ、ミクロなレベルでの音の何気なさが際立つ。ピアニスト指揮者の振る音楽は、いわば、ピアノの代替物としてのオーケストラという趣がある。オーケストラの魅力が浪費されているようなニュアンスがある。

 

しかしバレンボイムほどマルチタレントであり続けている音楽家もいない。ソロピアニストであり、室内楽奏者であり、歌曲の伴奏者でもある。コンサート指揮者であり、オペラ指揮者でもある。教育者としての顔も持つ。20世紀後半を代表する比較文学エドワード・サイードと対談できるほどの学識の持ち主であり、パレスチナイスラエル問題に積極的に発言する一方で、イスラエルワーグナーを演奏するといった音楽家ならではのデモを行ってきた。

そのなかでも特筆すべきは、サイードとともに創設した西東詩集オーケストラだ。ゲーテがアラブ世界の詩に憧れて晩年に詠んだ詩集の名前を冠するこのオーケストラでは、アラブ世界とイスラエルの音楽家たちが肩を並べて演奏する。ともに音楽を作ることによって、政治的な意味での直接的な解決がもたらされることはないだろう。しかしそれは、どのような行為にもまして、相互理解を促すものではあるはずだ。

 

バレンボイムが超人的な天才であることはまちがいない。キャリアの半ばで指揮者の道に入るピアニストは、ピアニストとしては一線を退いていくものだが、バレンボイムはそうではない。殺人的なスケジュールをこなし、商業録音をコンスタントに世に送り続けている。

しかし、その一方で、バレンボイムディスコグラフィから特別な一枚を選び出そうとすると、意外なほどイメージがわかない。どの録音も面白いけれど、いわゆる決定盤のようなものではない。

バレンボイムフルトヴェングラーに私淑してきたことはよく知られているけれど、バレンボイムもまた、音楽の一回性に賭ける音楽家なのかもしれない。彼の録音がどこか通過点であって、最終的な到達点のようには思われないのは、彼の音楽がつねに動くものであり、時間と空間のなかに消えていくものだからだろうか。

そんなバレンボイムも、80近くなり、「晩年の様式」(アドルノ/サイード)のような境地に至りつつあるらしい。散漫さと地続きだった奔放さが、その強度を失うことなく、乾いた瑞々しさに変化している。剥き出しに近いほどに構造があかるみに出される。リズムが厳しく叩き込まれ、輪郭が深く抉られるけれども、音楽の主導権はオーケストラに委ねられているようなニュアンスもある。両立しがたいものがいまのバレンボイムの音楽では共立している。

 

バレンボイムの音楽は、細部を聞くのではなく、全体を捉えるようにわたしたちを促す。それはもしかすると、音を聞くのではなく、音楽という現象を、現象の向こうにある精神のようなものを感知させることを目指すものなのかもしれない。

 

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