微妙な見下しのニュアンスがある「伴奏ピアニスト」――ソリストとしては一本立ちできない二流のピアニスト――という肩書はいまも使われているのだろうか。
室内楽における伴奏は、ソロと同じように、動機を発展させ、和声を確保し、リズムを刻んでいく。たしかに両者の役割は違う。重要度が異なるし、主役と脇役の区別はある。しかし、だからといって、一方が他方を完全に圧倒していいわけではない。相補的であるばかりか、相乗的な関係にあるからだ。
伴奏もするソロピアニストによる伴奏の場合、ピアノ部分の解釈が明らかに深い。経過句にすぎないようなところまで解釈が行き届いており、流れていくアルペジオの音のひとつひとつが、重なり合った和音の音のひとつひとつが、意味深く響く。伴奏が、影でも付け合わせでもなく、もうひとりの主役になっているし、それが、対話相手としての伴奏のあるべきかたちだと思う。
伴奏ピアニストの演奏は、デリカシーに欠けることが多いように思う。音の置き方が無造作だし、機械的に正確なリズムには柔軟さがない。あきらかに「伴奏」として、控えめに、目立たないように、自らを消すように弾いているかのように聞こえることが多い。
ソロピアニストと伴奏ピアニストを分かつのは、いったい何なのだろう。
技量か、音楽性か。そうした側面がないとは言わない。しかし、それ以上にありえそうなのは、アンサンブルにおける権力関係だろうか。
とりわけ録音の世界では、プレイヤーの商業的な知名度が、「ソリスト」と「伴奏ピアニスト」の音楽的関係をいびつなものにしてしまっているようにも聞こえる。そこから聞こえてくるのは、対等な対話ではなく、一方的なソロの発話だ。伴奏ピアニストはスタープレイヤーのソリストに合わせるだけの黒子になってしまっている。
アンサンブルが自律したプレイヤー同士による自由な対話となることを妨げているのは、音楽外の要因が大きいような気がする。
というようなことを、ライスターとデムスによるブラームスのクラリネット・ソナタの録音や、オイストラフとリヒテルによるフランクのヴァイオリン・ソナタのライブ録音を聞きながら考えてしまった。