うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

相反するものが共存する新しい関係の発見:西脇順三郎『詩学』(筑摩書房、1969)

少々風変わりな読書体験

不思議な文章だ。前へ前へと進んでいくというよりは、同じところに何度も立ち返り、同じことを別のかたちで言いかえる。反復が奇妙なリズムを作り出す。あちらこちらへと逸れたかと思うと、いつの間にか別の議論が始まっている。同じことが飽きもせず変奏され、積み重なっていく。すると、不思議な高揚感が生まれてくる。ある程度のスピードである程度の分量を一度に読まなければ、この感覚を味わうことはできないだろう。西脇のテクストは少々風変わりな読書体験になるだろう。

ガート・ルードスタインのゆるゆるの反復、エズラ・パウンドの切れ切れの断定、サミュエル・ベケットの途切れない冗語、そのような文体の対応物を日本語で作り出すとすれば、ここでの西脇の文章のようになるかもしれない。先行世代の英語モダニズム文学の文体実験を彼が念頭に置いていたかはわからないが、『詩学』がなにかとても奇妙なテクストであることは明白だ。

マニフェストではないし、エッセイでもない。論文でもない。しかし、それらの要素をことごとく含んでいる。ここには西脇流の西欧文学観が表現されているし、それは思想史を含みこむ壮大なビジョンである。ポスト象徴主義という文脈において、ボードレールマラルメを経てブルトンに至る系譜の後にくる詩人として、詩が果たすべき使命を規定しようとしているが、それは詩一般についてのものではなく、あくまでも彼ひとりの詩や詩学についてのものである。やや特殊ではあるものの、シャープでクリアな文学史観を背景に、簡潔だがいまひとつ要領をえない個人的な詩論が語られる。

おそらくここでは、ある種の混淆が起こっているのだろう。一方において、西脇は自らの詩論を説得的な議論に仕立て上げようとするが、同時に、個人的な詩学をリズミックにたたみかけるように提示していく。説明と表現、批評と創作とが、混ざり合っている。「詩学」についてのテクストというより、『詩学』というテクストそれ自体がひとつの詩であり、「詩学」という題をもつひとつの散文詩なのだろう。だとすれば、このテクストはあまり分析的に読みすぎるべきではないのかもしれない。

 

相反するものが共存する新しい関係を発見すること

とはいえ、西脇による詩の定義ははっきりしている。それは表現されるもののあいだに新しい関係を発見することである。西脇はそれをイロニイだのポエジイだの諧謔だの、さまざまに名づけるし、それらのあいだに厳密な区別が存在するのかどうかはよくわからないが、大雑把に言ってしまえば、相反するものの共存がかもしだす感興である「脳髄のよろこび」がポエジイ――「ポエジイはあくまで脳髄の現象であって心理的存在である」(155頁)――、相反するものを共存させる想像力の様態、現実に逆らって想像する想像力のあり方がイロニイ――「諧謔でないものを諧謔と考えることが最大な諧謔であると考えること」(157頁)――だろうか。

新しい関係とは、すでにある関係を脱臼させるようなものであり、そのためにこそ想像力が必要になってくる。新しい関係、それは、一般的な感性や知性からすると相反するように思われるようなものを共存させるものである。ロートレアモンのあの有名な一節「解剖台のうえでのミシンとこうもり傘の出逢い」を西脇は『詩学』のなかで引用してはいないが、これこそ、西脇が「新しい関係」で意図しているものの範例かもしれない。

「新しい関係」を発見するということは自然や現実を超越して想像することである。想像するということは自然や現実の関係を破壊することである。自然や現実の世界における通常の関係を断ち切って、二つのかけはなれたものを連結することである。しかし自然や現実そのものを破壊するのではない(19-20頁)

ポエジイのためには、この世にあるものだけではなく、この世にないもののことを想像する必要があるが、だからといって、超自然や超現実だけでは不充分である。西脇が追求するのは、つねに、ここにあるものとここにはないもの、現実と理念、自然と超自然といった、ふたつの存在論的カテゴリーに属する事物をつなぐことである。そのためには、あるものを適切に把握することがどうしても必要になってくる。というのも、自然が何であるかわかって初めて、超自然について想像することが可能になるからであるし、さらにいえば、自然と超自然の両方がわかっていなければ、自然や超自然のなかにそれぞれどのような関係がすでにあるのかがわかっていなければ、ふたつのあいだをつなぐ新しい関係を想像することなど、夢のまた夢だからである。

 

知性的な想像力と精神的な努力

詩はいまここですでに存在しているものそのものを変えるのではない。もの自体はそこにそのままあり続けるだろう。しかしながら、詩は、ものが自然に持ち合わせている関係を破壊し、べつのものと自然に逆らってつなぎあわせる。詩は想像することによって創造するが、ゼロからすべてを想像/創造するのではない。すでにあるものという素材を、いまだないものという糸によって、縫い合わせていくようなものだ。

ポエジイはものそれ自体をのべるのでない。ものそれ自体には関係しない。ただそのものがもっているいろいろの関係についてのべるのである。(58頁)

興味深いことに、想像力は理性の延長線上に位置づけられている。想像力も理性も、文学的なものも科学的なものも、知性というひとつの同じ起源に端を発するのだ。フランシス・ベーコンから引き出されたものであるらしいこの想像力すなわち理性という知性的な態度は、ドイツ観念論における想像力すなわちスキーム化というスタンスを経由し、ボードレールマラルメ象徴主義を経て、ブルトンのシュルレアリズムへという系譜を成す。知性的想像力は西脇の詩学を貫く重要な主題のひとつである。

人間の想像力というのは人間の知性の重大なひらめきであって、昔の人たちとは反対に私は理性から想像力が産まれたものと考えたい……理性はすでにあるものを数えたり調整し組織立てる仕事をするが、また新しい関係の存在を発見するポエジイという想像力ともなる……人間の想像性も理性も人間の知性から産まれたものである。(37頁)

想像力は知性的なものであり、知性的な想像力が作り出す新しい関係を表象する詩もまた、知性的なものである。だからこそ西脇は、アヘンのような麻薬で知性の逆側に突き抜けようという試みや、幼児のような純真さによる無垢な試みにたいして、否定的な態度を取る。詩は思索されるべきであって、たんなるインスピレーションの産物ではないのだ。

ヴァレリーが言っているようにマラルメはフランスに「むずかしい作者」という観念を創造した。また彼は芸術には精神的努力をする義務があることをはっきり人に告げたのであった。詩の女神や偶然に頼ってもあてにはならない。(132頁)

西脇もまた精神的努力の義務をわたしたちにはっきり告げる。

 

関係づけられるもののあいだのたえざる緊張関係

新しい関係を創出すること、それは、関係の項のどちらかを特権化することではない。どちらかが上位に立ったり、一方が他方を包含したりするような、上下関係は好ましくない。重要なのは両者のあいだの緊張関係であり、緊張関係の強度である。そう考えれば、なぜ西脇が象徴(シンボル)にたいして留保をつけるのかが理解できる。というのも、シンボル的関係においては、象徴が象徴内容よりも重要なのは、明白だからで、言ってみれば、象徴は象徴内容のための手段でしかないからだ。西脇がイロニイや諧謔を強調するのは、超越に傾きすぎないための安全弁の役割もあるのだろうけれど、本質的な理由は、それらが関係づけられるもの同士の個別性を尊重し、両者の関係性の様態をこそ尊ぶからだろう。

しかしながら、ボードレールマラルメ象徴主義的な解決――その極点にくるのはジョイスの『フィネガンズ・ウェイク』であると西脇は言う――には批判的であるとしても、フランス詩人たちの絶対への憧憬を、西脇が全面的に否定することは決してないだろう。絶対だけでは駄目だが、絶対がなくても駄目なのだ。世俗的であるだけではつまらないが、神秘的になるだけでもつまらない。反自然や絶対は必要だ。しかし、同時に、自然や現実も必要である。

 

音楽性でも比喩でもなく思考のイマージュを

すこし矛盾めいて聞こえるかもしれないが、西脇が思い描く詩は、参照的であり、参照的ではない。一方において、それは現実に実際に存在する何かについてのものであり、具体的にあるものについての描写であり、具体的にあるものへの参照である。それは詩人の脳髄のなかにしか存在しないものではない。しかしながら、他方において、詩はこの世にはないものを語る。詩は現実的に利用可能な情報のようなものを提供することはないだろうし、その意味で詩は科学技術的なものにはなりえない。詩は、詩それ自体で自律するような、独自の世界を表出する。西脇がマラルメの難解な詩を評価するのは、それらが、現実にある何かを参照しない、非参照的な詩であり、言葉それ自体の関係性が詩となっているからであるようだ。

とはいえ、マラルメのようなフランス詩人がそのような参照項を持たない詩を書く場合、そこで台頭してくるのは、つねに、言語の音楽性だった(103頁)。ところが西脇は詩の音楽性をそこまで重視していない。西脇にとって、新しい関係の学である詩とはまずなにより、イマージュの創出であり、それはいわば映像的なものなのかもしれない。西脇はさまざまな意味でブルトン分水嶺的存在と捉えているが、それはまさに、ブルトンが詩を文学からも、比喩からも、音楽性からも、独立させたからである(34、163頁)。

私はボードレールマラルメから宗教性を取り去り、今日のブルトンの詩論にも適用できるように、私はポエジイは新しい関係を発見することであると言いたいのである。(180頁)

西脇の詩学もまた、ブルトンの詩的独立宣言を引き継ぐものであると言ってよいだろう。

 

関係は発見されるのか創出されるのか

どうしてもよくわからないのは、新しい関係が、すでにあるのだけれど気づかれることなく隠されてきたものの「発見」であるのか、それとも、これまでいちども存在したことのなかったものの「創出」であるのか、という点だ。西脇の詩学マルティン・ハイデガー的な開示の学なのか、それともエルンスト・ブロッホ的なNoch-Nichtについての希望の学なのか。西脇において想像することはどこまで創造なのだろうか。

それはおそらく西脇本人も決め難く思っていたところかもしれない。たとえば「発見」と「発明」はどこまで質的に違うものなのか(36頁)。創作とは、すでにあるもののバランスを変えることにすぎないのか(112頁)。相対主義的なパースペクティヴの問題にすぎないのか、社会的に共有されている言葉の意味領域を拡大することにすぎないのか。「醜」と思われてきたものを新たに「美」と呼んでみるようなことでしかないのか。複眼的であることが詩学なのか。

想像されたものはみな有限の世界にある自然と現実を超越している。有限の世界からみればポエジイは「矛盾」であり「混乱」であり「無秩序」である。ポエジイという超絶の世界からみれば有限の世界で言う「無秩序」はジャン・コクトーがいうようにポエジイの世界ではそれが「秩序」である。「矛盾」ということは有限の世界の現象であるが、ポエジイという超自然の世界ではその「矛盾」は「矛盾でないもの」となる。(175‐76頁)

すべてはトリッキーな言葉遊びにすぎないのか。

 

ノンポリティカルな西脇の詩学のポリティカルな含意

きわめて西欧的に展開される議論を、一足飛びにひょいと禅的な言葉「大空」とつないでしまう(たとえば177頁)のは、理論家としての西脇の思考の弱さの表れかもしれない。ハイデガーとナチズムの共犯関係のことを考えれば、このあたりの問題はもっと突っ込んで考えてみなければならないのだけれど、自然と超自然のように垂直的関係にあるものを水平的に捉え直し、両者のあいだの緊張関係をこそポエジイとして捉え、諧謔という知的なアイロニーのなかに封じ込めようとした西脇の脱‐自然的で人為的な寂寥たる態度は、ファシズム的な有機性の集団的美学とは、決定的なところでズレていたと言ってもいいのかもしれない。

ポエジイというものは人間の精神界に存在するものであって、「野に叫ぶ声」であり、「考える一本の葦」である。非常に淋しいものである。(176頁) 

とはいえ、西脇はそれに続けて言う。

またポエジイは人間の救済である。自然や現実の中にしいたげられている人たちや世をはかなむ人たちを精神的に救済することになる。マルクスは物質的に救済しようとした。(176頁)

ヴァルター・ベンヤミンが「複製技術時代の芸術作品」の末尾で述べたように、政治的問題を政治的に解決するかわりに、美学的な解決という偽の処方箋を与えるのがファシズムであるとしたら、西脇の態度はそれに近いものかもしれない。たしかに、物質的な救済によって精神的な救済までもがもたらされると考えるのは、薄っぺらな考え方だろう。しかし、精神的な救済によって物質的な救済までもがもたらされると考えるのは、考え方として純粋に間違っている。芸術絶対主義的で精神主義的な態度、それはもしかすると「芸術のための芸術 l’art pour l’art」という19世紀末的な美学から西脇が引き継いだものかもしれないが、このノンポリな態度の政治的含意について、『詩学』はあまりに無邪気であるように思う。西脇がこのような言葉を書きつけるより何年も前、ドイツでは、アドルノが「アウシュヴィッツのあとで詩を書くのは野蛮である」と述べていた。

あるものそのものではなく、まだないものやありえないものをこそ、言葉によって、言葉のなかに出現させようとした西脇には、たしかに反権力性の感性のようなものが流れているのかもしれない。

ニイチェは現象の世界の哲学であって、その主要な中心点は「権力への意志」というかなり政治的意識である。私のポエジイではそれと反対に「権力を認めない意志」である。この方が私にとってより愛すべき尊敬すべき人道的神聖な人間像を構成してくれるのである。(188頁)