うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

溶け合う身体、振動する共感:ヴァージニア・ウルフ、森山恵訳『波』(早川書房、2021)

不可能な願望に浸りたいのだ。歩いているおれは、不可思議な共感の振動、振幅でふるえてはいないだろうか。( 127-28頁)

「人生とは、分かち合えないものがあるといかに色褪せるものか . . . 」(304頁)

 

『波』はウルフがたどりついた極北だ。散文詩で書かれた小説。ここでは字の文が消滅し、波をめぐる情景描写と、6人の登場人物の独白的対話が、ゆるやかに交差していく。夜明けから日暮れまで、自然の一日の時間の経過が、人間の一生と重ね合わされる。自然描写で始まる『波』は、自然描写で終わるだろう。まるで人間の一生は、自然の一日に包み込まれているかのように。人間の生存など、自然のうねりに比べたら、とるにたらない出来事であるかのように。

しかし、そんなことはない。意識の流れを援用しながらも、直接話法で書かれる6人の言葉は、音としてつぶやかれることのない内面の独白のようでありながら、自分自身に語りかける自分にしか聞こえない自己対話のようでもある。音にならない声のつぶやきは、ページが進むにつれて、ますます響き合っていく。誰かが誰かと直接的に言葉を交わすわけではないし、誰かの言葉に誰かが応答するというわけでもないにもかかわらず、彼女ら彼らの言葉はカノンのように追いかけ合い、対位法のように絡み合っていく。まるでテレパシーで互いにつながっているかのように。

大英帝国の縮図ともいえる小説でもある。オーストラリア帰りの少年は自らの訛を恥じ、ビジネスマンとして順風満帆な人生を歩みながら、どこか充ち足りない思いをかかえている。父のいない家庭に育った夢見がちな少女は芸術家のような存在になるが、成功しているとはいえない。紳士階級の男子にしても、淑女階級の女子にしても、表面上の順風満帆さと、内面の充実が釣り合っているわけではない。3人の男と3人の女は、男と女からなる3つのペアに分かれていくが、ヴィクトリア朝時代の小説の常套手段であった結婚プロットからは逸れていく。

6人が絶えず思い出すのは、インドで若くして亡くなった友のことだ。語られる対象でしかない友、けっして自身の声をもたない彼は、にもかかわらず、6人の意識が唯一集中する結節点である。けれども、彼が本当はどのような人物だったのか、6人のレンズをとおさない彼はどのような人間だったのかを、わたしたちは決して知ることはない。『波』の中心には、過剰に語られる欠如がある。

 

『波』を日本語で読み直すのはかれこれ20年ぶりになるだろうか。はじめて読んだのは青っぽい装幀のみすずの全集だったが、正直、よくわからない思った。20代後半ぐらいに、英語で通読したけれど、『灯台へ』や『幕間』と比べると、あまり感銘を受けなかったことだけをうっすらと覚えている。

今回、森山恵による新訳は、ある程度スピードを上げて読んだ。というのも、この小説はゆっくり読みすぎると内容が頭から抜けてしまいそうだから。

森山訳は、かなり見事なものだと思う。ストレスなく読ませてくれる翻訳。脚注はすべて後ろにまとめており(しかもそこまで多くはない)、本文の流れを中断しないやり方になっている。学術的な研究版としてではなく、小難しい理屈を必要としない独立した小説として読める翻訳を目指したからなのだろう。日本語でこの難解な小説を読み切らせる、かつ、説明しすぎることなくこのモダニズム小説の凄さと面白さを伝える、その2つの目的を、この翻訳は奇跡的に達成している。

 

しかし、翻訳が優れていたから逆説的に見えてきたことかもしれないけれど、『波』には『灯台へ』や『幕間』のような小説にある魅力がない。地の文とキャラクターの内面の融合がないのだ。

字の文を意図的に排除するという『波』の実験性は素晴らしいと思うし、地の文を持たないテクストを物語と崩壊させることなくキープし続けるウルフの文体の強度は見事なものだと思う。ウルフ本人は『波』を「詩劇」と呼んでいたそうだが、まさにこの作品は、独白の集積なのだ。劇的独白というよりは、意識の流れと通常の独白をミックスしたようなものと言うべきものだが、つまるところ、キャラクターたちの声が字の文をともなうことなく裸で投げ出されており、テクストの重層性に欠けるところがある。

6人の独白は深いところで共鳴するし、独白の連続であるにもかかわらず、それがゆるやかに連結された大河のようなものをかたちづくってはいる。『波』で極限まで推し進められている、意図的に曖昧な繋ぎ方——物語を隠喩的にまとめあげるやり方——は、ポスト・フローベール的な自由間接話法よりもはるかに技術的卓越性を必要とする書き方ではある。

最後のバーナードの語りは、もはや彼ひとりの声ではない。6人の混声であるばかりか、それ以上の人々の声の合唱なのだ。その意味では、『波』はまちがいなく多声的ではある。しかし、この多声性は、その絡まり合いや響き合いは、こう言ってよければ、混成的な単層である。自由間接話法が作り上げる重層的な密度——角度によって、単層にも見えれば、複層にも見える――とはまったく別物である。

 

『波』は反‐方法論的であり、方法論化を拒むものであり、方法論化できないものである。『波』のやり方を一部で取り込んだ自由間接話法的小説は書けるとしても、逆はありえないような気がする。

自由間接話法と意識の流れを不可分なところまで混ぜ合わせた、つねに複数の声が同時に響く(それでいて、地の文が最終的な統御をつかさどってもいる)『ダロウェイ夫人』と『灯台へ』のあと、ウルフは、意識の流れを直接話法に落とし込んだ、ひとつの声がべつの声と響き合う(それはつまり、重唱を制御する指揮者としての語り手=書き手の権威が意図的に放棄されている)『波』を書いた。

そして、彼女の遺作となった『幕間』は、おそらく、『波』という脱中心の美学を経由することでしかたどりつけなかった、ポスト・フローベール的な自由間接話法路線への復帰であったようにも思う。劇のテクストが小説と交錯する『幕間』は、統御しようとする字の文と、そこから逃れようとする劇中のセリフとが、つかず離れずのかたちで同居している。しかし、それは『波』に比べれば、やはりコントロールされた書き方ではあるような気がする。ウルフにしても、『波』ほどの実験性を二度試みることはできなかったかのように。『波』の路線は、行き止まりであり、反復不可能であるかのように。

 

森山の翻訳は見事なものではあるけれど、原文を見てしまうと、自分ならそう訳さないなと感じるところはある(英語の文の流れと、日本語の文体という両方の意味で)。けれど、日本語だけ読んでいると、そのような不満は感じないから、不思議だ。

 

「ぼくらは空想の世界を作るんだ [We make an unsubstantial territory.]」(15頁)

 

「陶製の皿も流れだし、金属のナイフも液体状のもののごとく、すべてはゆるやかな不定形へとなりゆく。[Everything became softly amorphous, as if the china of the plate flowed and the steel of the knife were liquid.]」(32頁)

 

「人生がぼくらを引き裂く。でも何らかの結びつきは築いたのだ。[Life will divide us. But we have formed certain ties.]」(65頁)

 

「私の身体は独立した人生を生きている。[My body lives a life of its own.]」(70頁)

 

「呼びかけてもだれも応えてくれないというのは、なんと虚しいだろう、なんと深夜を虚ろにするだろう。」(86頁)

 

「(リズムこそが書きものの生命だから)[(the rhythm is the main thing in writing)]」(88‐89頁)

 

「友人がぼくらを思い出してくれるとき、なんと大きな役割を果たしてくれるのだろう。とはいえ思い出され、薄められ、自分が混ぜられ、不純にされ、他人の一部にされるとは、なんと痛みが伴うのだろう。[How useful an office one’s friends perform when they recall us. Yet how painful to be recalled, to be mitigated, to have one’s self adulterated, mixed up, become part of another.]」(93頁)

 

「予測を超えて、自在に流れ出すおれの言葉の魅力と奔流は、自分をも楽しませる。言葉によって事物からヴェールを剥ぎとっていくと、いかに多くを、言い尽くせぬほどいかに多くを観察していたか、自分でも驚き呆れるのさ。[My charm and flow of language, unexpected and spontaneous as it is, delights me too. I am astonished, as I draw the veil off things with words, how much, how infinitely more than I can say, I have observed.]」(94‐95頁)

 

「おれは深いところへ、究極の深みへ行きたい。おれに与えられた特別な才能、つまり常に行動するのではなく探究する力を、時には発揮したいのだ . . . 共感の両腕で全世界を抱きしめたいというーー行動の人にはできないことだーー不可能な願望に浸りたいのだ。歩いているおれは、不可思議な共感の振動、振幅でふるえてはいないだろうか。[I wish to go under; to visit the profound depths; once in a while to exercise my prerogative not always to act, but to explore . . . to indulge impossible desires to embrace the whole world with the arms of understanding—impossible to those who act. Am I not, as I walk, trembling with strange oscillations and vibrations of sympathy, which, unmoored as I am from a private being, bid me embrace these engrossed flocks . . .]」(127-28頁)

 

「でもわたしの想像力は身体なの。自分の身体が放つ輪を超えては、何も想像できない。[But my imagination is the bodies. I can imagine nothing beyond the circle cast by my body.]」(144頁)

 

「けれどもわたしたち身体に生きる者は、身体の想像力でものの輪郭を摑むのよ。[But we who live in the body see with the body’s imagination things in outline.]」(200頁)

 

「口をきく必要などない。ただ耳を澄ます。ぼくは素晴らしく研ぎ澄まされている。たしかにこの詩は手ごわいな . . . この詩を読むには、数限りない目が要るのだ . . . 懐疑的であるべきだが、しかし警戒心など投げ捨て、扉が開いたなら受け入れなければ。そして時には泣くのだ。煤、樹皮、何であれ固い付着物を、ナイフで情け容赦なく削ぎ落せ。そうして(彼らがしゃべっているうちに)、網をさらに深く深く沈め、彼が言ったこと、彼女が言ったことをそっと網に引き入れ、水面に引き上げ、詩を作るのだ。[I need not speak. But I listen. I am marvellously on the alert. Certainly, one cannot read this poem without effort. . . To read this poem one must have myriad eyes . . One must be sceptical, but throw caution to the winds and when the door opens accept absolutely. Also sometimes weep; also cut away ruthlessly with a slice of the blade soot, bark, hard accretions of all sorts. And so (while they talk) let down one’s net deeper and deeper and gently draw in and bring to the surface what he said and she said and make poetry.]」(226‐27頁)

 

「手を振るしぐさ、街角でのためらい、側溝に煙草を投げ捨てる人物――すべてが物語だ。しかしどれがほんものの物語なのか。それがわからないのだ。[Waves of hands, hesitations at street corners, someone dropping a cigarette into the gutter—all are stories. But which is the true story? That I do not know.]」(249頁)

 

「それでも心の壁が薄くなっていく瞬間がある。溶け合わぬものはない瞬間がある。」(256頁)

 

「人生とは、分かち合えないものがあるといかに色褪せるものか . . . [how life withers when there are things we cannot share.]」(304頁)

 

「「私の人生」と呼ぶものを打ち明けようとするとき、私が顧みるのは、ひとつの人生ではないのですよ。おれはひとりの人間ではない、多くの人間だ。自分が何者なのかすらまるでわからない――おれはジニーであり、スーザン、ネヴィル、ロウダあるいはルイでもある。そうでないとしたら、どうやって自分の人生を彼らから切り離せばいいのだ。[ . . . what I call “my life”, it is not one life that I look back upon; I am not one person; I am many people; I do not altogether know who I am—Jinny, Susan, Neville, Rhoda or Louis; or how to distinguish my life from theirs.]」(317頁)

 

翻訳についてもう一点。原文では波の描写部分は斜字体だけれど、この翻訳ではほかのパートと同じフォント、同じ字体になっており、字面の上で見分けがつかない。これはどういう理由によるのだろう。