バイロンの『ドン・ジュアン』は、名前は知っているけれど読んだことがない作品のひとつだったが、図書館の新刊の棚に東中稜代による上下2巻の新訳があったので、これ幸いとばかりに借りてきて、流し読みするようにページをめくりつつ、ところどころ気になったところだけ原文をチェックするという、雑に丁寧なやり方で読みとおしたのだけれど、思っていたものとずいぶん違うテクストだった。
いや、しかし、そう書きながら、はたして自分はバイロンについて、バイロンの『ドン・ジュアン』について、いったい何を知っていたのか、という問いが湧いてきた。そう、わたしはじつは、バイロンについてほとんど何も知らなかったのではないか。
バイロン卿 Lord Byron と呼ばれることもある人物であったこと、ギリシャのほうまで旅をし、軍事闘争に身を投じていたことぐらいは知っていた。文学史的に言えば、ワーズワースやコールリッジのようなロマン主義を切り開いた第1世代の後に来る第2世代であり、シェリーやキーツと同世代であることは知っていた*1。
シェリーとキーツが短命であったことは知っていたし、バイロンが短命であることもなんとなくは知っていたが、36歳で亡くなっており、1819年から1824年にかけて出版されていった『ドン・ジュアン』は死によって中断を余儀なくされた遺作であることは、知らなかった。
なにより驚いたのは、モーツァルトとダ・ポンテの『ドン・ジョヴァンニ』(1787)で、ドン・ジョヴァンニ(イタリア語)/ドン・ファン(スペイン語)といえば、好色放蕩なプレイボーイで、神をも怖れぬエゴイストであると思い込んでいたのに、バイロンの「ドン・ジュアン」は純真なところすらある若き青年なのだ。たしかに、物語は放蕩者のようなエピソードで始まるが、情に厚いところがある。自分本位であると同時に、幼き者にたいする愛であふれている。戦争孤児のような不幸な者たちにたいする共感がドン・ジュアンからほとばしり出る。
この子には親がいません、だから僕の子なのです。(下51頁、第8巻100連)
This child, who is parentless, and therefore mine.
かなり分裂的な連作長編詩だ。イタリア語で「巻」に相当するCantoという名が与えられた巻は17巻に上るが、これは、若きドン・ジュアンの遍歴であると同時に、それを語る語り手の饒舌な言葉のパフォーマンスでもある。自己言及的に脱線的な、過剰な自意識があふれる詩行。
我が方式は初めから始めること。
そして構想は秩序整然としているので、
あらゆる脱線を最悪の罪として禁じる(上15頁、第1巻7連)
My way is to begin with the beginning;
The regularity of my design
Forbids all wandering as the worst of sinning
と第1巻の最初で述べておきながら、その指令は守られることがない。自ら定めたルールを自ら破ってしまう。
わたしは認めねばならない、
わたしに短所があるとしたら、それは脱線だということ。(上293頁、第3巻96連)
. . . I must own,
If I have any fault, it is digression—
こうして、『ドン・ジュアン』は脱線を繰り返しながら進んでいく。
ドン・ジュアンはスペインからギリシャへ、ギリシャからロシアへ、ロシアからイギリスへとさまようが、その架空の旅路は、バイロン自身がたどった現実の旅路と重なりあう部分も多い。その意味で、ドン・ジュアンはまちがいなくバイロンの分身ではある。
しかし、そのようなドン・ジュアンの旅路を語る語り手もまた、バイロンの分身でないはずがない。語り手は、情の人ともいうべき純真な主人公とはちがって、ずっと皮肉で辛辣だ。
メタフィクション的でもある。『ドン・ジュアン』は頻繁に、現実世界の事柄に言及し、バイロンの論敵をこき下ろす。それは生々しいほどに具体的な、嫌らしいほどに卑俗な感情の垂れ流しである。
しかし、その一方で、情熱にたいする哲学的な思索が、烈しくも静かな強度をともなう詩行として表出する。
しかし情熱はつとめて外見を装うが、
見えなくすることで、一層秘密を漏らしてしまう、
漆黒の空がもっとも激しい嵐を告げるように、
見張っても役に立たない目にその動きを露見してしまう、
情熱がどう[ママ]のような衣を纏おうとも、
それはいつの時も変わらぬ偽善だ。
冷たさ、怒り、軽蔑あるいは憎しみなど、
情熱は仮面をよく被るが、いつも遅きに失する。(上48頁、第1巻73連)
But passion most dissembles, yet betrays
Even by its darkness; as the blackest sky
Foretells the heaviest tempest, it displays
Its workings through the vainly guarded eye,
And in whatever aspect it arrays
Itself, ’tis still the same hypocrisy;
Coldness or anger, even disdain or hate,
Are masks it often wears, and still too late.
軟体動物的に、明確な骨格もなく肥大していく詩行は、ときに、アフォリズム的な短行で、わたしたちを驚かせる。
人は急いで愛するが、憎む時には時間をかける。(下258頁、第13巻6連)
Men love in haste, but they detest at leisure.
『ドン・ジュアン』を貫くテーマのひとつは反抗だろう。それはドン・ジュアンの行動についても、語り手の思索についても当てはまる。
大抵の人間は奴隷で、偉い奴が一番そうだ、
自分たちの気紛れや激情や何やかやの奴隷なのだ。
優しさを創造すべき社会自身が、我々が、手にしたごく僅かなものまでも破壊する(上374頁、第5巻25連)
Most men are slaves, none more so than the great,
To their own whims and passions, and what not;
Society itself, which should create
Kindness, destroys what little we had got
わたしは戦う、少なくとも言葉で(そして——
もし機会あらば——行動で)、思想と戦う者たちと
そして思想の敵の中でもっとも粗野なる者は、
今も昔も専制君主とおべっか使いだ。
誰が勝つのかは分からない、もしもわたしに
そんな予知能力があったとしても、それはあらゆる国の
あらゆる専制政治に対する、わたしの明白な、心に誓った、
この紛れもない憎悪には何の障害にもならないだろう。(下85頁、第9巻24連)
And I will war, at least in words (and—should
My chance so happen—deeds), with all who warWith Thought;—and of Thought’s foes by far most rude,
Tyrants and sycophants have been and are.
I know not who may conquer: if I could
Have such a prescience, it should be no bar
To this my plain, sworn, downright detestation
Of every depotism in every nation.
望むことは、人々が王と暴徒の
両方から自由でいることだ——わたしからも諸君からも。
その結果、わたしはどの党派にも属さないので
あらゆる党派を怒らせる——でも構わぬ!
わたしの言葉は、順風を受けて進もうと
する場合よりも、少なくとも誠実で本物だ。
何も得るもののない者は策を弄しない、
縛ることも縛られることも望まぬ者は、
常に自由にものが言える、わたしもそうする
そして「隷属の身分」のジャッカルの叫びには賛同しない(下86頁、第9巻25-26頁)
I wish men to be free/ As much from mobs as kings—from you as me.
The consequence is, being of no party,
I shall offend all parties: never mind!
My words, at least, are more sincere and hearty
Than if I sought to sail before the wind.
He who has nought to gain can have small art: he
Who neither wishes to be bound nor bind,
May still expatiate freely, as will I,
しかし玉座と交換しても、わたしの自由な思想を変えはしない。(下208頁、第11巻90連)
But would not change my free thoughts for a throne.
だがわたしは反抗するために生まれてきた。
しかし反抗も主に弱者の側に立つことだ。(下376-77頁、第15巻22-23連)
but I was born for opposition.
But then ’tis mostly on the weaker side;
『ドン・ジュアン』が描き出す世界は戦争が常態であり、そこでは暴力が日常茶飯事であるようだけれど、反逆者であるドン・ジュアンは力を憎み、戦争の偽善を批判する。
お前は「最高の人殺し」——ぎょっとするな、この文句は
シェイクスピアのもの、ここで用いても間違いではない——
戦争は「正義」によって神聖化されなければ
脳味噌を撒き散らし、喉笛を切り裂く術なのだ。(下75頁、第9巻4連)
You are ‘the best of cut-throats:’—do not start;
The phrase is Shakspeare’s, and not misapplied:
War ’s a brain-spattering, windpipe-slitting art,
Unless her cause by right be sanctified.
きわめて男性的な物語と言えるかもしれない『ドン・ジュアン』は、他人を傷つけるような力の礼賛ではなく、他人を慈しみ、助ける心をこそ、礼賛する。
おそらく
戦争の価値は決して高まりはしないだろう、
過去の例が示すように、戦争はただ征服を促進するために、
ささいな浮きかすを求めて多大な金を浪費するものだから。
海なす血潮を流すことより、一滴の涙を
乾かすことの方に、より本物の名声がある。
なぜなのか――それは自分を称賛できるからだ。(下3頁、第8巻3‐4連)
perchance
. . .
War’s merit [history] by no means might enhance,
To waste so much gold for a little dross,
As hath been done, mere conquest to advance.
The drying up a single tear has more
Of honest fame, than shedding seas of gore.
And why?—because it brings self-approbation
なるほど、それはたしかに、純粋に利他的なものではなく、あくまで自己本位な、自己中心的な満足を語るものかもしれない。利己主義が必然的に利他主義としても機能するような精神の称揚でしかないのかもしれない。しかしながら、『ドン・ジュアン』の根本にあるのは、独白的な内面世界ではなく、他者に開かれたこの世の空間なのだ。
喜びを得んとする者は皆喜びを
共有せねばならぬ――「幸福」は双子で生まれたのだ。(上215頁、第2巻172連)
. . . all who joy would win
Must share it,—Happiness was born a twin.
それは喜びを求め、喜びを共にせんとする、共同的な態度である。真面目さ、真っ当さを大切にせんとする、真摯な態度である。
『ドン・ジュアン』は分裂を嫌う。
宇宙(ユニヴァース)をあまねく(ユニヴァーサル)存在する自己と考え
すべては観念で——すべては我々自身だとするのは、
何と崇高な発見だったことか わたしは世界を賭けて言う
(世界が何であろうと)、この考えは分裂を生まないと。(下164頁、第11巻2連)
What a sublime discovery ’twas to make the
Universe universal egotism,
That all's ideal—all ourselves: I’ll stake the
World (be it what you will) that that ’s no schism.
だからこそ、ここでは、不埒な、不確かな、見せかけだけを尊ぶような市場的態度が、皮肉なトーンで槍玉にあげられる。
人間は不思議な動物で、自身の本性と
様々な技を不思議な風に利用し、
特に自分の才能を見せるために、
何か新しい実験をするのを特に好む。
現代は風変わりなものが溢れる時代、
様々な才能が様々な市場を見出す。
まずは正道から始めるのが最善だ、そして
無駄骨を折ったら、いかさまには確かな市場がある。(上75頁、第1巻128連)
Man ’s a strange animal, and makes strange use
Of his own nature, and the various arts,
And likes particularly to produce
Some new experiment to show his parts;
This is the age of oddities let loose,
Where different talents find their different marts;
You’d best begin with truth, and when you’ve lost your
Labour, there’s a sure market for imposture.
即物的な金の力は軽蔑に値するものとして描き出されるだろう。
様々な美徳も、もっとも高邁な美徳である「慈善」さえも、
節約するもの――悪徳は稀有なる物には金を惜しまない。(上359頁、第4巻115連)
The virtues, even the most exalted, Charity,
Are saving—vice spares nothing for a rarity.
変わりゆく歴史的世界を描きながら、テクストは、変わるはずのない普遍的真理に憧れているようなところがある。
何も続きはしないことを知っていたが、
今では変化でさえもあまりに変化しすぎる、
刷新されることもなく。(下204頁、第11巻82連)
I knew that nought was lasting, but now even
Change grows too changeable, without being new
変化にたいする嫌悪にも似たものがある。
きわめて分裂的な長編連作詩である。シェイクスピアをはじめとして、さまざまな先行テクストにたいする引用がそこかしこにちりばめられている。現実の歴史どころか、バイロン本人の自伝的事柄と思しきものが、あたかも歴史的大事件と同じぐらいの重要性を持っているかのように、同じような手つきで言及されるだろう。ここでは些事と大事が、物事の重要性のスケールが、狂っていく。
とはいえ、理性的なものをまっこうから否定するというわけでもないし、理性的なものに変えて感性的なものを上位に置こうというのでもないだろう。
ロマン主義的な酩酊が讃えられている箇所は、たしかにある。
人間には理性的であるがゆえに、酔っ払わねばならぬ、
人生の最高のものは酩酊以外にはない(上219頁、第2巻179連)
Man, being reasonable, must get drunk;
The best of life is but intoxication
しかし、ここで最終的に称えられるのは、反理性というよりも、理性の上手を行きつつ、それを帳消しにするのではなく、補完し、昇華するような想像力ではあるまいか。そのような想像力が、歴史的世界だけではなく、仮想的読者にも、望まれている。
――しかしどんな描写も
真の効果を歪曲してしまう、だからあまり
綿密になりすぎない方がよい、輪郭を示すのが最善だ――
後は生き生きとした読者の想像力が補ってくれる。(上498頁、第6巻98連)
—but all descriptions garble
The true effect, and so we had better not
Be too minute; an outline is the best,—
A lively reader’s fancy does the rest.
バイロンはこの長大な詩編を、押韻する詩行によって構成しようとしたのであり、その点において、彼は古典的であるとさえ言えるかもしれない。自由な形式のなかで自由な感性や思考を自由に羽ばたかせるよりも、バイロンは、自由な思念や情念を既存の型のなかに落とし込もうとしたのかもしれない。
ニヒリズム的なところはあるにせよ、無を志向するのではない。否定や反逆は、正なるものに向かうために必要な通過点であって、それ自体が目的ではないのだろう。
ポストモダン的なところがある『ドン・ジュアン』は、リアルとフィクションの境界線を撹乱し、世界史的出来事と私事を混ぜ合わせ、先行するテクストと大いに戯れる。キャラクタ―以上に、語り手が騒々しい。
しかし、そうした多様な遊びは、懐疑と肯定の健全な結合のために、用いられているのかもしれない。
すべてを疑う者は
何事も否定できない。(下409頁、第15巻88連)
He who doubts all things nothing can deny
現代においてバイロンを読むべき理由はいくつもある。