うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

プレーンな豊饒さ:連東孝子訳『W.S.マーウィン選詩集1983‐2014』

47年4月、精神病院に隔離されていたエズラ・パウンドを訪問し、文通が続く。パウンドから「枝葉ではなく種子を読み取るべし。EP」と書いた鉛筆書きのはがきが届く。(195頁)

 

抱くことのできないもので星は創られている

from what we cannot hold the stars are made]

(「若さ Youth」130頁)

 

ことばが忘れ去られるとき

意味はどこにいるのだろう

where will the meanings be

when the words are forgotten

(「庭にいて見上げると Looking Up in the Garden」157頁)

 

W・S・マーウィンの詩集をざっと読む。いまいちつかめない。

1927年生まれ。聖職者の家柄。パウンドと交流し、ウィリアス・カーロス・ウィリアムズにほれ込み、エリオットとも親交があったビート世代。ロバート・グレイヴズの補遺の校訂を任されたり、翻訳仕事をしたりという、流浪の生活。仏教に惹かれるが、目の当たりにした修行の光景に失望する。最終的にはハワイに落ち着き、植林に精を出した庭師。ベトナム戦争にもイラク戦争にも反対した反戦運動家。日本とのかかわりがあり、与謝野蕪村の句集全訳をなしとげ、谷川俊太郎と友好を結んでいた。2011年、アメリ桂冠詩人。2019年死去。

ここに集められた詩は彼の後期(60代半ばから80代半ば)の仕事であり、それをもって彼の詩の傾向を言い当てることはできないけれど、大きな叙事詩ではなく、細やかな抒情詩の人という印象。世界の自然とわたしが、なぜか、スッとつながってしまう、または、わたしが世界の自然のほうに拡がっていく、そんな感覚が表出する。

しかし、そこに何かひねりがある。モダニズム的な意味で言葉にたいする違和感が表出するというのでもないし、世界との距離感があるというのでもない。しかしなにかストレートではない、微妙にずれた感じ。日常的なのに非日常的。ささやかなことから、ささやかではない何かが顔を出す。

それをもっともよく体現しているのは彼の文体。文法的に脱臼しているわけではないけれど、句またぎと言っていいのかわからないけれど、読んでいると、次のワード、次のラインへと、前へ前へと自然に加速していくような読みの態度をとってしまっていることに気づかされる。そんな不思議な文体。

 

それを翻訳がとらえきれているのかどうか。いや、翻訳自体は立派なもので、日本の現代詩の英訳を多数手がけてきた方らしく――自身の経歴は序文でわずかに触れているばかりで、あとがきにも奥付にも訳者略歴がないのは、奥ゆかしいというのか、自己消却的というのか――巧みなものである。にもかかわらず、マーウィンのスルスルと流れていく言葉のスピード感を表現できていないようにも感じるというか、英文法に依拠することで作り出されたスピード感は文法体系のちがう日本語ではけっしてそのままでは表出させられないので、何か別の方法を選んだというような手ざわりがあるというか。

 

というわけで、原文で読むと、かなり印象が異なる。

 

たとえば、『樹林の雨 The Rain in the Trees』(1988)に収められている「居場所 Place」。連東の翻訳(52‐53頁)では次のようになっている。

世界の最後の日には

ぼくは木を植えたい

 

何のためか

果実がほしいのではない

 

あの果物のなる木は

植樹された木ではない

 

太陽がすでに

沈みかけているとき

 

初めて大地に根をおろして

立つ木がほしい

 

そして水は

死者で溢れる大地にみなぎる

 

その根に触れ

その葉の上空には

 

雲がひとつまたひとつ

通り過ぎていく

原文では次のようになっている。

On the last day of the world
I would want to plant a tree

what for
not for the fruit

the tree that bears the fruit
is not the one that was planted

I want the tree that stands
in the earth for the first time

with the sun already
going down

and the water
touching its roots

in the earth full of the dead
and the clouds passing

one by one
over its leaves. 

ワンセンテンスで出来ているこの詩には2つの起点がある。2行目の I would want to plant a tree と、7行目の I want the tree 。ここで表明される望みは、「木を植えること plant a tree」であり、それがどのようなことなのかが説明されている。まずは、「なぜ what for」という理由が、そして、どのような木なのかが描写される。そしてその描写が、下と上に伸びていく。木が植えられた大地(the earth)、樹根(its roots)に触れる水(the water)。上空にある太陽(the sun)と雲(the clouds)。そしてその中間にある葉(leaves)。

ここでは視点が上下する。まずは下に向かい(in the earth)、上に向かう(the sun)。しかし太陽は沈みゆく(going down)ので、わたしたちの視線はふたたび下に降り、今度は大地の表面を突き抜けて、地中に潜る。わたしたちは根を潤す水を感じる(the water/ touching its roots)。しかしその湿った土は生と死が混ざり合っている(the earth full of the dead)。しかし、その次にわたしたちは、はるか上空の雲(the clouds)を見上げる。けれども、それはあくまで葉越しのこと(over its leaves)。

もちろんここで、誰がそのような視点移動を行っているのかは、明確には告げられていない。「I」 であるように感じるけれど、木を植えるのは「世界の最後の日 On the last day of the world」のことであり、それはあくまで仮定の話(would)である。だから、葉越しに雲が通り過ぎていくのを眺めるのは、木の下にいる誰かでもあれば、非人称的なものでもある。「I」であり、「I」ではない誰か。

 

この一連の流れが、原文では、句点なしに流れていく。それに、「I want the tree」以降は、付帯状況を表す with で、木からその上下の環境にビジョンがシームレスに肥大していく。それが、連東の訳では、「立つ木がほしい」の一行によって分断されてしまい、「そして水は」続くせいで、なにか新しい別の要素が入ってきたように感じてしまう。

また、日本語の文法上、仕方のない部分はあるとはいえ、水と根のあいだに、「死者で溢れる大地にみなぎる」が侵入してしまい、太陽が「降下 going donw」していくのと、詩の視点が土を潜って「根に触れる touching its root」の連関がつかみづらい。

それから、原文では、太陽で2行、水と根で2行、死者の大地と雲で2行、通り過ぎる雲と葉で2行となっており、とくに死者の大地と雲がワンセットになっているところが肝心だと思うのだけれど、翻訳では、太陽で2行、大地と根で2行、水と死者の大地で2行、根と葉で2行、通り過ぎる雲で2行と、かなり違った割り振りになってしまっている。

とはいえ、原文の流れをキープしたまま日本語にできるのだろうか。

試してみる。

世界最後に日に      On the last day of the world
ぼくは木を植えたいと思う I would want to plant a tree

何のため         what for
実のためではない     not for the fruit

実をつける木は      the tree that bears the fruit
植えられたものではない  is not the one that was planted

わたしの植えたい木が   I want the tree that stands
大地に初めてそびえるとき in the earth for the first time

太陽はすでに       with the sun already
沈みかけていて      going down

そして水は        and the water
木の根に触れていて    touching its roots

死者で溢れる大地のなかで in the earth full of the dead
そして雲が通り過ぎて   and the clouds passing

ひとつひとつ       one by one
葉のうえを。          over its leaves. 

 

もう一篇。『ここにいる君 Present Company』(2005)に収められた「魂に To the Soul」。連東の訳(102‐3頁)では次のようになっている。

誰かそこにいるの

もしいるとしたら

君は本物かい

どっちにしろ君は

一つなの 複数なの

複数だとしたら

そっくり全部まとまっているの

それとも

順繰りに答えないことにしているの

 

君の答えは

問いそのものなのかい

終わりのない

問う行為を耐え抜いて

それって誰の問いなの

どんなふうに始まるの

どこから来るの

問いはいったいどうやって

君のことを見つけたんだろうか

自分の

声を跨いで

自分自身の

無理だけに頼ってさ

 

原文の初出は New Yorker の2001年2月5日号40頁のようだ。

Is anyone there
if so
are you real
either way are you
one or several
if the latter
are you all at once
or do you
take turns not answering


is your answer
the question itself
surviving the asking
without end
whose question is it
how does it begin
where does it come from
how did it ever
find out about you
over the sound
of itself
with nothing but its own
ignorance to go by

書記システムがちがうから、第2連が小文字で始まる(普通なら大文字)というわずかな驚きを表現することはできない。疑問文だが「?」もなく、句点もないというちょっとした引っ掛かりも、やはり、表現不可能だ。

この詩は呼びかけのようになっているけれど、呼びかけている相手がそこにいるのかどうかが、まず疑問に付される。「誰かそこにいるの Is anyone there」。

そして、いるとしたらと仮定し(if so)、ひとつか複数か(one or several)とさらに仮定する。そして、またさらに、後者(複数)と仮定し、複数のあなたが一度に全員そこにいるのか(are you all at once)、それとも、全員はそこにおらず、代わりばんこで誰かは答えないのか(take turns not answering)と問いかける。

そして答えは出ないまま、「誰かそこにいるの Is anyone there」と問いかけた者の問いは続いていくのだけれど、ここにはその問いかける者が人称(たとえば「I」)として現れることはなく、いるかいないか定かではない「あなた you」だけが表出し、その架空かもしれない他者にたたみかけるように問いが投げつけられるのである。

それをどのようなトーンにするのか。問いかけというよりも自問のようにしてしまうのか。詰問調にするのか。フレンドリーなものにするのか。連東は、どちらかといえば、ややくだけた感じの問いかけという道を選んだようであり、その方向性としては一貫しているものの、最後を「頼ってさ」と軽やかに落としているのが、ちょっとオヤッという感じもするところ。

原文にはひとつも難しい単語はなく、文体としてもプレーンであり、音声情報にほかならない抑揚がないからこそ、これをどのような日本語の文体に落とし込むかは、翻訳者の決断にゆだねられる。だから、連東の選択はまったく理にかなったものではあるし、何度も読み返してみるほどに、最初の違和感は薄れて、「なるほど」と納得していくのだけれど、この訳し方が唯一無二という感じもしない。ほかにもいくつもの別の可能性があるのではないかという気がしてくるし、まさにそのような複数的な可能性を宿しているところに、マーウィンの詩のプレーンな豊饒さがあるのかもしれないという気はする。