うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

翻訳としての書く行為(ル=グウィン『世界の果てでダンス』)

「翻訳というのは実に謎めいています。いよいよ私は書くという行為そのものが翻訳である、あるいは他のいかなるものよりも翻訳のようなものであると感じるようになりました。もうひとつのテクスト、オリジナルは何でしょう? 私は答えを持ち合わせていません。私はそれは源だと思います。様々な観念が泳いでいる深い海です。それを私たちは言葉という網で捕え、光を放っている言葉を振るって船にあげる……船の中、観念はこのメタファーの中で死に、缶詰にされ、サンドイッチとして食べられてしまうのです。何かを向こう岸に渡すには船が必要です。あるいは橋が必要です。ではどんな橋でしょう? メタファーはすべて自滅的です。私は頑固にも詩であれ散文であれ、ものを書くことは翻訳となんら変わるものではないという考えを未だに持っています。翻訳をする際、手始めにまず言葉からなるテクストを手にします。ものを書いたり創造したりする際にはそのようなテクストはありません。言葉ではないテクストを手にしているのです。そして言葉を見つけるのです。もちろん、それが異なっている点です。けれども、正しい順序で正しい言葉を手に入れる、韻律を正しくするという仕事、これらは同じことです。同じ感覚です。/恐らく、だからこそ時として異なった言語で、異なった国々でものを書いている多くの作家たちがみな、小鳥や魚の群れのように、何の交流も持たないのに同じ方向に向かっているように思えるのではないでしょうか。突然みんなが同じことを新たにはじめ、相手が何をしようとしているのか理解しているのです。彼らはみな言葉になっていない同じテクストから自分自身の語法あるいは個人言語に翻訳しているのです。」(ル=グウィン、篠目清美訳「散文と詩の相互作用」『世界の果てでダンス』191頁)

 

「私は誰も知らない、誰も話さない言語から翻訳を作り出す方法を学びたいのです。」(ル=グウィン、篠目清美訳「散文と詩の相互作用」『世界の果てでダンス』192頁)