うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

強いられたものではあるけれど、不快というわけではない親密さ:ウィム・ウェンダース・レトロスペクティブ

@シネ・ギャラリー

ウィム・ウェンダース・レトロスペクティブで6作品をまとめてみた。『都会のアリス』(1974)、『まわり道』(1975)、『さすらい』(1976)、『アメリカの友人』(1977)、『パリ、テキサス』(1984)、『ベルリン・天使の詩』(1987)。

ウェンダースは距離を撮る映画監督なのだと思う。物理的な距離というよりも、心理的に親密な距離。

しかしその親密さは、往々にして、強いられたものだ。善意や好意で織りなされるものではない。偶然から、悪意から、一緒の時間を過ごさなければならない状況に陥ってしまった人々が築いていく関係。そのような関係が作り出す微妙な「空気」を映し撮ることを、ウェンダースは試みているように感じた。

そこで言葉は二次的なものになる。ウェンダースの映画では無言の時間が長い。登場人物が寡黙だからというのではなく、言葉以外のやり方でつながろうとするからだ。こう言ってみてもいい。言葉は交わされるけれども、言葉の意味はそれほど重要ではない。言葉が交わされたこと、なにかがやりとりされたということが、なによりも重要なのだ。そのような交換行為が関係を作り出し、一緒にいることがなぜか当然のことになり、精神的な親密さを生み出していく。

心地よい関係とは言いがたい部分がある。『都会のアリス』は、ひょんなことからおしつけられた少女を連れて彼女の祖母のいる街を探すジャーナリスト作家の青年の話。『まわり道』は、作家志望の青年が旅芸人の老人と少女と列車の中で出会い、恋人とボンの街を歩き、ホテルで青年の詩を耳にして感銘を受けて後をつけてきた太っちょという5人からなる不思議な道連れの話。『さすらい』は、妻と離婚して湖に車で突っ込んだ男を連れて街を経めぐる根無し草の映画技師の話。『アメリカの友人』は、何気なくののしった贋作斡旋業者にひっかけられて殺人稼業に巻き込まれていく難病もちの額縁職人の話。『パリ、テキサス』は、4年のあいだ行方不明になった兄を迎えに行く弟の家で育てられていた兄の息子と、兄が、きずなを取り戻し、失踪した妻を探す話。『ベルリン・天使の詩』は、人間の目に見えない天使たちが人間の生活を見つめ、ついには堕天して、見染めた人間の女性を探し出す話。

ウェンダースの映画はヌーボー・ロマンがやろうとしたことを、小説がやったのよりずっとうまく実践しているのではないか。書かれたテクストは、「何も起こらない」状況を描き出すために、たくさんの言葉を用いなければならない。そして、何も起こっていないことの描写は往々にして冗長で退屈である。たとえば、「Aは立ち上がったかと思うとすぐさま座り、また立ち上がって周りを見回し、もういちど座ると、今度はまったく身動きせず、数分のあいだそのまま身じろぎもしなかったが、突如としてビクりと身を震わせて急に立ち上がった」というように。書かれたテクストでは、何も起こっていないときでも、何かが起こっているときでも、描写の量や質はそこまで変わらないだろう。それどころか、何も起こっていないときのほうが言語が過剰になり、瑣末な細部が執拗に記述されることになるのではないか。そして、そのようなテクストを読むのはなかなかしんどい作業になるはずだ。

しかし、映像になると、それがなぜか成立してしまう。特別なことが起こっているわけではない、何かの言葉が交わされているのでもないなにげないシーンでも、しかるべきアングルとフレームがあれば、しかるべき音楽があれば、間が持ってしまう。映像として成立してしまう。それを成り立たせるのは映画監督の直感的なセンスであり、方法論化しづらい唯一的なフィーリングなのだろう。ウェンダースが作家主義に数えられる監督であるのはわかる気がするし、彼が小津安二郎を尊敬しているのもよくわかる気がする。

ウェンダースが白黒フィルムにこだわるのは審美的な趣味の問題では説明しきれないと思う。純粋な情報「量」で考えた場合、カラーのほうがモノクロより多いのかどうかはわからないが――そもそも視界的なものを「量」で計測できるのかという問題もあるが――色がないほうが、画面にたいする集中度は高まるのかもしれない。白黒のほうが情報の「質」が高まるというわけでもないだろうけれど、わたしたちの受け取り方には影響がある。モノクロのほうが、細部の色彩ではなく、全体の構図や空気にわたしたちの意識が自然と引き寄せられる。

面白いことに、ウェンダースの映画では、モノクロのほうがアクチュアルで、カラーのほうがノスタルジーにつながるような感じがする。たしかに白黒映像は、いまそこにあるはずの現実を、どこか遠い過去に移し替えるような効果も持つけれど、ウェンダースの場合、白黒映像は、時間的に隔たらせるためではなく、被写体とわたしたちのあいだに空間的な距離を取るために用いられているのかもしれない。わたしたちをキャラクターたちのあいだの親密さに近づけつつも、キャラクターそれ自体への感情移入には向かわせないようにするための手段なのかもしれない。

ウェンダースの映画ではカラーのほうが特殊な手段といっていいのだろう。『アメリカの友人』では映像の色調で映画全体のトーンを作り出すためにカラーが用いられているように感じた。同じことは『まわり道』についても当てはまる。『ベルリン・天使の詩』のカラーとモノクロの使い分けはきわめてシステマティックで――天使の視点はモノクロ、人間の視点はカラー――あざとい感じがする*1

けれども、ウェンダースが観客のことを勇敢にも無視しているとは思わない。見やすく分かりやすくしようという配慮は感じられないが、見づらくていい分かりにくくていいという独善的な傲慢さも感じない。彼の映画が短めのシークエンスのまとまりで出来ているところから、とくにそのように思う。おそらく、明確な出来事が起こらない映像を見続ける生理的な限界がどのくらいになるかを、ウェンダースはある程度まで計算しているのではないか。ある程度のところで暗転し、場面が切り替わる。そこで観客は一息つける。その塩梅が巧み。しかし、その塩梅にしても、反復可能なマニュアル的なものではなく、作家のセンスにまかされているように思う。そこにウェンダースのユニークな面白さがある。

シークエンス自体は反復的ではないし、プロットにしてもクリシェ的なものではない。しかし、音楽の使い方は、おそらく意図的に、反復的なところがある。ワーグナーのライトモチーフ的な使い方と言ってもいい。まったく同一ではないにしても、似たような音楽が繰り返されることで、観客はプロットの見取り図を聴覚的に把握できるようになる。このあたりのさりげない気づかいが心憎い。

クリシェ的なところを意図的に流用している部分もある。『まわり道』や『アメリカの友人』では、タイトルがちょっとおどろおどろしい感じの赤字で表示され、映画が始まる前からわたしたちはこれがホラーチックなものになることに気づかされる。『アメリカの友人』は全編にわたって暗く緑色がかった色彩のせいで、ますますそのような予感がする。しかしこのようなあざとさはあくまでひかえめで、そのあたりに、ウェンダースの趣味の良さを感じる。

ウェンダースは俯瞰的な映像が好きなのかという気がする。『まわり道』は街を空から捉えて、だんだんズームしていく。『都会のアリス』は、それとは反対に、列車の窓からだんだんズームアウトして、最後には列車が空から鳥観図的に捉えられる。『ベルリン・天使の詩』には高所を見上げるようなショットが多数あったと思うし、『パリ、テキサス』では空港を眺めるシーンで遠くを見下ろすようなショットがあった。キャラクターの上半身を映すのが基本ではあるけれど、要所要所で引きの図が入る。これもまた、キャラクターへの過剰な感情移入を中和するための手段なのかもしれない。

 

ウェンダースの映画を観たことが、現在進行形で、自分の生の在り方に大きな影響を与えているような気がしてならない。世界の見方、世界との関係の切り結び方が、ドラスティックに変化しつつあるのを感じる。

認識が細やかになり、鑑賞がスローになり、物事に深く長く丁寧に潜っていくようになってきている。世界にたいする寛容度が高まり、世界をあるがままに、おおらかに受け入れるようになってきている。

世界をありのままに肯定するというのではない。ウェンダースが描き出すのは、すこしずつ歯車が狂っていく物語だ。それを観ることをとおしてわたしたちは、わたしたちの自明性を疑い出す。彼の映画は、わたしたちを、思想のレベルではなく、感性や情感のレベルで、組み替えていく。

心がすこしずつ、しかし、とてもとてもラディカルに、ゆっくりと、作り変えられていく。スローに変容していく自分がなぜか愉しくてしかたない。

*1:最後のバーのシーンの映像美――ふたりの顔が織りなす影絵――は圧倒的なものがある。前にいるマリオンの横顔の影が後ろにいるダミエルの顔を暗く隠すという構図。けれども、ふたりの詩的対話は、ドイツ語の抒情詩のレパートリーである神秘性とでもいおうか、「よくわからないけどなにかすごく深いこと言っているはず」という感じで押し切ってしまっているような感じはする。ハントケの「詩」は素晴らしいものなのだとは思うけれど、やはり過剰ではある。最後のシーンがポエトリーリーディングのようなものになってしまい、言葉ではなく存在感で魅せるウェンダースの映像美学とフィットしてないように感じる。ほかのウェンダースの作品と比べると、あそこのマリオンの言葉の「意味」が前面に出すぎて、映像それ自体にたいする集中度が相対的に下がってしまう。あそこはもっとアンビエンスな感じの、あえて輪郭をぼやかした曖昧な言葉でいいはずのところだと思う。