うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

「この魚だって友だちだ」:ヘミングウェイ、今村楯夫訳『新訳 老人と海』

希望を抱かないことは愚かなことだ、と老人は思った。(99頁)

It is silly not to hope, he thought.

ヘミングウェイの『老人と海』を読み返したのは20年ぶりぐらいだろうか。と書きながら、『老人と海』はもしかすると初めて英語で読み通した本のうちの一冊で、邦訳は読んだことがなかったかもしれない、と思った。

というわけで、もしかすると初めてかもしれない邦訳での読了となったのだけれど、プロットの大筋は記憶どおりではあったけれど、細部については「そうだったっけ」という印象が強い。

キューバの老いた漁師がひとりで漁に出て、大物のマグロと三日三晩格闘し、とうとう仕留めるものの、寄港するあいだ、何度もサメに襲われ、獲物の大半は食われてしまったのだった。

老人と海』のプロットをざっとまとめれば、こんな感じになるだろう。釣りに造詣が深かったヘミングウェイの面目躍如と言えるのは、海や空の描写、トビウオやシイラやマグロやサメなどの魚の描写、網や銛といった漁具の描写、魚と格闘する漁師の肉体描写の細やかさであり、それが単純なプロットからなる物語世界に奥行きを与えている。訳者解説によれば、ヘミングウェイはあるインタビューのなかで、この物語にわずかに登場するだけの漁師町の人々の生活を細やかに描き出し、一冊の長い小説にすることもできたが、自分が目指したのはそういうものではない、つまり、遂行に推敲を重ねて、あえてこのようなかたちとして作り上げたのだ、というようなことを述べているらしいが、それはとても納得させられる言葉である。描かれなかった(しかし、容易に描くことができたであろう)細部の痕跡が、この小説テクストにたしかに残っている。不在のものの手ざわりが、不思議な読了感を残す。

訳者の今村楯夫による詳細な解説によれば、彼の新訳の新味は、「老人 the old man」を慕い、助ける「boy」の年齢をどう捉えるかという点にあるそうだ。これまでの訳では、boy を「少年」と理解し、10代の口調で話させていた。しかし、今村は、boy という語の一般的用法――「少年」だけではなく、「若者」を意味する語でもあること―――からも、小説に書き込まれたディテール――大リーグ選手についてのエピソード――からも、ヘミングウェイの別の小説での用法――別の小説では boy を20代の人物にたいして用いている―――からも、「boy」を、すでに独り立ちしている20代の若者として訳出することにしたという。

それはひじょうにうまくいっていると思う。既訳を見ていないので比較はできないけれど、思慮深い落ち着いた青年の口調になっているおかげで、彼の老漁師にたいする敬愛の念――漁の手ほどきをしてくれた先達へ感謝、依然として優れた漁の腕を持っている人物にたいする尊敬、老いて窮しているところがある老人にたいする報恩の念――が、しみじみと伝わってくる。彼はたしかにこの小説のなかで老漁師の話し相手のようなものであり、アシスタントであり、あくまで脇役ではあるけれど、彼の老人にたいする優しく貴い態度が、物語世界をさらに高潔なものにしていることが、この訳のおかげでとてもよくわかる。

今回読み直して気がついたのは、ヘミングウェイがかなりにの象徴性を盛り込んでいるという点だ。訳者解説によれば、ヘミングウェイ自身はそのような読解にたいして懐疑的であり、象徴性を意図的に組み込んだのではないと述べていたようだが、訳者もしてきているように、この物語はキリスト教的なイメージが随所にちりばめられている。そもそもキリスト自身も漁師だった。『老人と海』には寓話的な深みがある。

しかし、そのような「謎解き」は、『老人と海』を読み違えることになりかねない。この小説で味わうべきは、そのような象徴性でもなければ、ヘミングウェイ自身の人生訓――「だが、人間は打ち負かされて [defeated] はならない . . . 打ち砕かれる [destroyed] ことはあっても、敗ける [defeated] ことはない」(90頁)――のような箴言ですらなく、ヘミングウェイがたどりついた自然観であり、宇宙観のようなものではないかという気がする。

漁師にとって、魚を捕まえ、殺し、食べるのは、たんなる職業的行為である。しかし、そのようなプラクティカルな関係から、ほかの生命との倫理的な可能性が開けてくる。魚を殺して食べることの意味が、老人のなかで独り言のように問い直されていく。こうして、好敵手であった獲物は、ひとたび捕まえられると、彼の友となる。だから、その友がサメに食われていくことは、彼の心にも体にも傷跡を残すことになるだろう。

老人の思いは、魚だけではなく、海にも、空にも、星にも広がっていく。

最初の星々がまたたき出した。リゲルと呼ばれていることは知らなかったが、これらの星が現れるとまもなくほかの星が空一杯に広がり出す。星はみな友だちだ。遠いところにいる友だちが。

「この魚だって友だちだ」と老人は声に出して言った。「こんな立派な魚はこれまで見たことも聞いたこともない。でも殺さなければならない。星を殺さないで済むのはありがたい」

毎日、月を殺さなければならないとしたら、月は逃げ出すだろう。しかし、もし、毎日、太陽を殺さなければならないと想像したらどうだ。そう考えると、わしらは幸運に生まれついている。(70頁)

 

The first stars were out. He did not know the name of Rigel but he saw it and knew soon they would all be out and he would have all his distant friends.

“The fish is my friend too,” he said aloud. “I have never seen or heard of such a fish. But I must kill him. I am glad we do not have to try to kill the stars.”

Imagine if each day a man must try to kill the moon, he thought. The moon runs away. But imagine if a man each day should have to try to kill the sun? We were born lucky, he thought.

この世界抱擁的な、宇宙全体を抱きしめ、宇宙全体に抱きしめられるような、そんな抒情的で超越的な多幸感(たとえほんの一時のものでしかないとしても)こそ、『老人と海』の凄みではないかという気がする。

今村は『老人と海』はヘミングウェイにとっても「完成品」(170頁)であり、彼が完成しえた最後の長編小説であったと述べている。たしかにヘミングウェイは、ここで、これ以上ないというかたちで作り上げられたテクストをわたしたちに提示しているのかもしれない。しかしそれは、それだけで完結しているものでもなければ、それだけで閉じているものでもない。このテクストはわたしたちをそのように完成した世界のなかに招き寄せながら、その世界をつうじて、その世界で描き出される自然の事物や生命をつうじて、わたしたちの感性をはるか遠くまで連れていく。