うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

「暗い情念の流動体」:ダレル『アレクサンドリア四重奏』(河出書房新社、2007)

なぜなら人間とは土地の精神の延長にほかならないからだ。(『ジュスティーヌ』219頁)

相対性原理の理論は、抽象画や、無調音楽や、無定形(あるいはとにかく循環形式しかない)文学に対して直接の責任がある . . . (『バルタザール』171頁)

わたしたちアレクサンドリア人は、うわべに固い殻をかぶっているけれど、ほんとうはセンティメンタルな人間で、自分たちの友人が人生を楽しんでくれるようにと願っています。(『マウントオリーヴ』195頁)

私らは私らが夢みるものになるのだ . . . (『クレア』75頁)

 

ロレンス・ダレルの『アレクサンドリア四重奏』は不思議な連作だ。『ジュスティーヌ』(1957)、『バルタザール』(1958)、『マウントオリーヴ』(1958)、『クレア』(1960)は、時系列に進んでいかない。『ジュスティーヌ』の物語は、『バルタザール』において別の視点から語り直されることで、まったく別の物語になる。『マウントオリーヴ』は前2巻より過去の物語を、前2巻の主要人物ではない人物の視点から語り起こすことで、前2巻の物語の社会的な歴史的な背景が浮かび上がってくる。最終巻の『クレア』は、前3巻を時系列的にも物語的にも引き継ぐ総集編ではあるけれど、大団円をもたらすものではない。

いや、真面目な話をすれば、もしきみが――独創的で、とは言わない、ただ単に現代的で――あることを望むなら、小説のかたちで四枚のカードのトリックをやってみてもいいのじゃないか。いわば四つの物語に一本の軸を刺し通し、そのおのおのを天の四風に捧げるのさ。じつのところ、これが、見出された時(タン・ルトゥルヴェ)ではなく、解き放たれた時(タン・デリヴレ)を体現するひとつの連続体なんだ。空間の彎曲自体が立体的な物語を与えてくれる。一方、連続体を通してみた人間の個性は、おそらく、プリズムを通したように分解するのじゃないかな? (『クレア』171頁)

ダレルが目指すのは単一的な統合ではなく、複数的な相対化。そのような相対化をこそ原理として抱擁しているアレクサンドリアという街。

ぼくたちはこの風景の子供らだ。この風景が行動を、思考さえも支持する。ぼくらが風景に反応する度合に応じて。ぼくはこれほど確かな身元証明を思いつくことができない。(『ジュスティーヌ』49頁)

そのころすでに、彼はこれまでのように幼年時代の夢にひたるのではなく、巨大な物語群を形成する歴史の夢を体験しはじめていた。そしていまこの夢のなかに都会がみずからを投じた――まるでおのれの文化の底流にある集合的欲望や、集合的願望を表現するための敏感な媒体をやっと見つけだしたとでもいうふうに。彼は目覚めると、埃の粉を刷(は)いたような疲弊した空に刻印される塔や尖塔(ミナレット)をながめ、その上にモンタージュをかけたかのように、歴史の記憶の巨大な足跡が映るのを見るのだ。そういう記憶は個人のさまざまな回想の背後に存在していて、その導き手となり、案内人となり、発明者とさえなる。なぜなら人間とは土地の精神の延長にほかならないからだ。(『ジュスティーヌ』219頁)

その街をその複数性のうちに生きたのかもしれないカヴァフィスは、この小説のキャラクターとして登場することは絶えてないけれど、彼の詩のアンビヴァレントな響きは通奏低音として常に聞こえてくる。呪いのような、逃れようとして憧れてしまうような、アレクサンドリアという重層的な街の魅力。その魔力。

ぼくは老詩人の詩の一節を思い出していた。「あの古めかしいのろまの家具どもは、まだどこかをうろつき歩いているにちがいない」記憶とはなんとしぶというものだろう。なんとつらそうに日々の仕事の生の素材にすがりつくのだろう。(『ジュスティーヌ』215頁)

アレクサンドリアでは夜明けまえによく雨が降る。空気を冷やし、市立公園の棕梠のかさかさと鳴る固い葉を洗い流し、銀行の鉄柵を洗い、舗道を洗う。アラブ地区の土の道路は掘り上げたばかりの墓穴のように匂っているだろう。花売りたちが花束を外に出して新鮮な風に当てようとしているだろう。「カーネーション、娘っ子の溜息みたいにに甘いカーネーション!」という呼び声をぼくは思い出した。港のタールや魚や塩に浸かった網の匂いが、人影のない街路沿いに押し寄せ、砂漠特有の無臭の空気の溜りとぶつかり合う。いずれ日が昇れば、この空気は東から町なかにはいりこんで、湿ったファサードを干すだろう。どこかで、眠たげなマンドリンの疼きが強い雨音に突き刺さり、物思わしげでメランコリックな小曲を刻みつける。(『クレア』120‐21頁)

アレクサンドリア四重奏』の「形式」は、プルーストの『失われた時を求めて』と比較できる。この物語の主要な語り手であり、友人からは「ダーリー」と呼ばれる男は、作者「ローレンス・ダレル」その人のようでもあれば、分身のようでもあり、まったくの創作のようでもある。作者「マルセル・プルースト」と、物語の語り手「マルセル」が、同一人物のようでありながら決してそうとは確定できないように、「ダレル」と「ダーリー」の関係も意図的な未決状態に置かれたままである。

しかしそれ以上に決定的なことがふたつある。

ひとつは、『マウントオリーヴ』が『スワンの恋』のように、『新約聖書』に先行する『旧約聖書』のように、物語の雛形――報われることのない愛に惹きつけられてしまうこと――を提示しているところ(もちろん、プルーストでは『スワンの恋』が「マルセル」の恋愛に、時系列的にも物語的にも先行するが、ダレルでは、「ダーリー」の恋愛がすでに2度も――『ジュスティーヌ』では彼自身の口から、『バルタザール』では医師にしてカバラ主義者の友人の視点から――語られた後に、遡及的に、それに先行する祖型のようなものとして『マウントオリーヴ』というテクストがあるという違いはあるのだけれど)。

もうひとつは、『クレア』が『見出された時』のように、戦争によって隔てられるとともに、戦争というリアルが、プライヴェートな空間に侵入してくるところ(とはいえ、『見出された時』が「マルセル」による作家という天命の発見というクライマックスで幕を閉じ、あたかも「マルセル」がそこから『失われた時を求めて』という長編小説を書き始めることを予感させるのとは裏腹に、『アレクサンドリア四重奏』にはそのような大団円はなく、物語は決して大きなクレッシェンドを描いて終わることがない)。

 

愛がこの小説群の根幹にあるというのに、それはほとんど不毛に終わる。本当に愛すべき人を愛すことができない悲喜劇が繰り返される。ダーリーはジュスティーヌを愛していると思い、メリッサを見捨てるが、ジュスティーヌは本当の愛を隠すためにダーリーを利用したにすぎなかったことが、バルタザールの語りによって明らかになる。しかし、後の巻で明らかになるのは、そもそもジュスティーヌとネッシムの婚姻自体が、ユダヤ人とコプト人の戦略的な盟約にすぎなかったことである。『アレクサンドリア四重奏』をとおして加速度的に明らかになっていくのは、アレクサンドリアという街の歴史的人種的重層性――コプト人、アラブ人、ユダヤ人、ヨーロッパ人(イギリスとフランス)――であり、そのあいだの権力関係にほかならない。サドに触発されたカップリングの試験的な組み換えの物語と思われたものが、巻が進むほどに、現実の歴史の力学にますます巻き込まれていく。

にもかかわらず、ダレルは決してアレクサンドリアの歴史を正面切って自身の小説に書き込むことはない。

たしかに次のような記述はある。

エジプトにとっては、アレクサンドリア人自体が他国者であり追放者なのだ。エジプトは彼らの輝かしい夢の底辺に存在している。熱い砂漠に包囲され、世俗の快楽を拒否する厳しい信仰の風に吹きさらされている。エジプトは襤褸と宿業の国であり美と絶望の国だ。アレクサンドリアはまだしもヨーロッパだ――もしそんなものがあるとすれば、アジア・ヨーロッパの首都だ。カイロとは似ても似つかない。あそこにいれば彼の全生活がエジプトの鋳型にはめこまれる。彼はふんだんにアラビア語を喋る。ここでは、フランス語、イタリア語、ギリシア語が支配する。環境、社会的風習、あらゆるものが異なっている。すべてがヨーロッパの鋳型にはめこまれていて、駱駝や棕梠の木や寛衣をまとった土着民は、なにか、きらびやかに彩りした装飾帯(フリーズ)として存在しているにすぎない。さまざまな起源に分れる生活の背景にすぎない。(『マウントオリーブ』191頁)

しかし、大きく見れば、アレクサンドリアという街を、描写のために描写することはあまりない。街がすべての主要登場人物の源泉であるにもかかわらず、第一原因とも言うべき街は間接的に表象されるばかりである。

その意味で、『アレクサンドリア四重奏』は『ユリシーズ』に似ていなくもない。街はすべての背景であり、すべての地である。しかし、あまりにそうであるからこそ、街自体が表に迫り出してくることはない。街は後景において圧倒的なプレゼンスを放つのみである。

 

ダレルが試みるのは、客観的な歴史ではなく、キャラクターたちの生きられた経験であり、さらにいえば、キャラクターたちによる回想である。彼ら彼女らは、振り返ることによって、書き起こすことによって、過去を記憶としてとらえ直す。だからこそそれは時系列にはならないし、かならずしも順序だったものでもない。思い出されるままに、新たな視点が導入されるたびに、足し算的に付け加わっていく。

(ぼくにとってもっとも必要なことは、自分の経験をはじめから順序立てて記録することではない――それは歴史の仕事だ――経験がぼくにとって意味を持ちはじめた順に記録していくことだ)(『ジュスティーヌ』145頁)

芸術家や大衆は地震計とか電磁荷みたいなもので、ただ記録するだけだ。もっともらしい理屈はつけない。真実であれ偽りであれ、成功しようと失敗しようと、偶然にまかせて、ある種の伝達が行われることを知っているだけ。そいつをさまざまに分類して嗅ぎまわしても――結論が出るわけはない(こんなふうに芸術に近づくのは、すべて芸術に身をゆだねることのできない連中の通弊ではないのかな)。(『マウントオリーヴ』147頁)

アレクサンドリア四重奏』はメタ小説的でもある。というのも、「ダーリー」自身が作家になろうとしている主人公だからで、そこに、すでに作家として名をはせているパースウォーデン――ウィンダム・ルイスがモデルらしい——がおり、彼らに先行するとともに、すべてのもうひとつの原型ともいうべき『風俗(ムール)』(「女性情狂と心理的不能に関する激烈で荘重な研究」(『マウントオリーヴ』141頁)いう小説を書いたアルバニア出身の作家にして、ジュスティーヌの先夫であったアルノーティがいる。

ぼくたちは神話的な都会に委託された三人の作家だ。ここで養われ、ここで自分の才能を確認する。アルノーティ、パースウォーデン、ダーリー――まるで、過去形、現在形、未来形みたいに! そうして、ぼく自身の生活のなかでは(「時」の横腹の傷口からとどまることを知らずあふれ出る流れ!)、三人の女が「愛する」という偉大な同士の叙法を代表するかのように並んでいる。メリッサ、ジュスティーヌ、そしてクレア。(『クレア』229頁)

バルタザールは医師だが、彼もまた書く人間であり、クレアは画家である。『アレクサンドリア四重奏』は芸術家小説でもあり、プルーストの『失われた時を求めて』と同じように、芸術家にならんとする主人公のビルドゥングスロマンであるとも言える。「あらゆる世代にわたって芸術家が生まれるという事実  」(『クレア』177頁)をこの小説群が描き出そうとしていることはまちがいない。

人間の五感のそれぞれが芸術をかかえている。[Each of our five senses contains an art.](『バルタザール』133頁)

芸術家は死んだ者たちとまだ生まれていない者たちに真の友を求める . . . (『マウントオリーヴ』75頁)

多数的な声が響いているとも言えるし、最終的にはダーリーという一人称の語りが支配的であるとも言える。ダーリーの想起は、別の視点からの語り――それを彼は、手記や手紙、彼の原稿の余白にたいする書き込みといったかたちで受け取るだろう――によって問い質され、ひっくり返される。それは、ダーリーとは異なる小説原理を提出するだろう。たとえば、パースウォーデンは次のように述べる。

ぼくはひとつの調子を……肯定の音調を響かせたいと思っている――だが哲学や宗教の用語を使ってではない。これには抱擁の曲率を、つまり言葉を越える恋人の伝達法を手に入れねばならない。ぼくたちが生きている世界は、宇宙の法則などという煩雑な説明では伝えがたい単純な何かを基盤にしているのだという感覚を――たとえば、柔らかな行為、動物と植物、雨と土、種子と木々、人間と神など、原始的な関係のなかにひそんでいる素朴で柔らかな行為、そういうわかりやすい何かに基づいているのだという感覚を伝えねばならない……ぼくはこの最後の本で、単純な掟という領域のなかに人間の希望があり、このなかに人間の展望があるということを主張しなければならない。人類は理性によってではなく、もっぱら注意力を研ぎ澄ますことによって、しだいに必要な知識をわがものにしてゆく。それがまるで目に見えるようだ。そしていつかは人々がこういう考え方のもとで生きる日も来るだろう . . .(ダレル『バルタザール』292‐94頁)

テクストには、ほかのテクストからの――パースウォーデンやアルノーティのような仮構のものから、カヴァフィスのような実在のものまで――引用があふれている。しかし、それらを最終的に統合している(とまでは言えないとしても、すべてを包摂する受け皿ではある)。その意味では、多数性が最終的には単数性に回収されているとも言える。

 

とはいえ、そのような全体的な構想よりも、細部の観察や洞察にこそ、心理的な解剖にこそ、ダレルの小説家としての繊細さや鋭敏さを見出すほうがいいのかもしれない。

苦痛はあまりに長くつづくと、ある一器官から身体と精神の全領域に押し広がっていくものだから。(『ジュスティーヌ』228頁)

長いこと反逆者でいれば誰でも独裁者になりますよ。(『バルタザール』133頁)

どこに弁明を求めるべきか? ただ事実そのものにのみ、とぼくは思う。なぜなら、事実こそ、この「愛」という謎の中軸をなす心理の内部をすこしでもかいま見せてくれるのだから。ぼくは、愛のイメージが海の浪のように果てしなく連なりうねりながら引き退いて行くのを見る。あるいは、ぼくが織りなした夢や幻想の上に、死んだ月よりもなお冷たく昇るのを――しかし、それは本物の月と同じように、いつも真理の一面をぼくから隠している。美しい死んだ星の裏の世界を隠している . . . この名詞を修飾するにはありとあらゆる形容詞が必要だ――なぜなら、このうちのどの愛を取ってみても同じ属性を所有してはいないのだから。しかも、そのすべてが、ひとつの定義しがたい資質を、裏切りというひとつの共通する未知数を持っている。ぼくたちの一人ひとりが月のように暗い面を持っている――ほんとうにぼくたちを愛し、ぼくたちを必要としている人間に「非愛」という偽りの顔を向けることができる。(『バルタザール』154‐55頁)

話したいことが体のなかに積み重なったまま、店ざらしになっている感じ。ひとり暮しでほんとうに困るのは、たぶん、これぐらい。友人の思考という調整力がそばにあれば、自分の思考と比較できるのに! 孤独な人間はどうしても独裁的になります。その判断が不可謬の権威(エクス・カテドラ)を帯びるのは当然のなりゆきです。たぶん、これは仕事にとって必ずしも良いことではない。(ダレル『バルタザール』295頁)

(初期の宗教はすべて、独房の型になぞらえて築かれたことを知っていますか。どんな生物学的法則を真似たのかは知らないが……)。(『マウントオリーヴ』157頁)

いつも自分の国と確かな繋がりを持ち、帰国を確信し続けているのはなんとすばらしいことか。だが、それを考えるだけで、彼の胸はむかついてくる。それと同時に、むかついたことに苦しみと後悔を覚える(彼女が言った。「わたしはとてもゆっくり本を読んでいます。点字ではまだ早く読めないからではありません。ひとつひとつの言葉の力に、その残酷さと弱さに身をまかせたいと思うから。思考の核心にたどりつきたいと思うから」)。(『マウントオリーヴ』211頁)

人の心を所有したい――この病に効く薬はない。(『マウントオリーヴ』216頁)

音楽は人間の孤独を確かめるために発明された . . .(『クレア』76頁)

おのれの絶望の質を充分に楽しむならばいつでも僅かな希望はある。そうだ。そうして信念があればつねに懐疑があることを覚えておけ。(『クレア』375頁)

 

読みとおすのは骨が折れた。つまらない小説だからではなく、よくわからない小説だったからだ。

読みとおして、こうしてまとめてみたものの、やはりまだよくわからないでいる。

 

訳者の高松雄一は、これらの連作を出版後すぐに翻訳し、それから四半世紀をへて改訳した。彼はその作業を評して、「若者の熱気と老人の分別がうまく融け合ってくれればいいが、と願っているが、私の感じを言えば、分別のほうが少し優位に立ちすぎたような気がする」(『クレア』392頁)と述べている。その意見には同意したい気になる。旧訳は見ていないけれど、たしかにこの訳文はやや落ちつきすぎているような気はする。

 

これらの作品を50年代末に立て続けに出版したとき、1912年生まれのダレルは40歳代後半であった。時代の熱気――メタフィクション的な作風が流行する前夜――もあったと思う。また、高松が述べているように、イギリス本国では労働階級の生活をクローズアップしたような作品が台頭してくるなか、そのまったくの外部から(しかし、外部とはいえ、大英帝国の支配権ではあり、かといって、完全な植民地というわけでもなかった外部から)やってきたダレルのモダニズム的な高踏趣味が放っていたはずの特異性をこの翻訳から感じるのは難しいだろう。

しかし、高松がいみじくも述べているとおり、この小説群が「暗い情念の流動体」(397頁)をめぐるものであるというのは、大いに賛成する。そういう小説なのだ。流動的な構成、相対化を繰り返す視点。唯一的な客観的真実ではなく、情念の強度のリズムを味わうべき小説なのだ。

 

 

ごく私的な主要登場人物の記述

男たち

ダーリー 本作の主人公。うだつのあがらない教師。作家志望。

バルタザール 医師。カバラ主義者。

ポンバル フランス下級領事館員。ダーリーのルームメイト。

スコービー 元水夫で、いまはスパイの真似事をやっている老いた白人。女装趣味。密造酒を自作して販売したり、割礼に反対してもめ事を起こすなど、いかがわしい人物だが、アラブ街の近隣住民からは慕われている。

パースウォーデン イギリス外交官。作家。ネッシムの友人であり、彼の無実――パレスチナとの陰謀――を主張するが、ネッシムが実際にそのような陰謀にかかわっていたことを知り、自ら命を絶つ。

マウントオリーヴ イギリスのエリート外交官。アラビア語を堪能に操る。ネッシムとは長年の付き合い。ネッシムの陰謀に困惑させられるが、外交官としてしたたかに生き延びる。

 

ネッシム 名家の長男。大富豪。文明とその退廃の象徴。メリッサと子をなす。

ナルーズ ネッシムの弟。兎口。インテリな兄を尊敬している。野生とその勢力の象徴。クレアを愛しているが、報われない。

 

女たち

メリッサ 踊り子。ダーリーと恋愛関係になるが、ダーリーがジュスティーヌと関係を深めるにつれて、関係はぎくしゃくしだす。海外の病院で死去。

ジュスティーヌ 『アレクサンドリア四重奏』の世界の中心をなす女性。多面的な自我の持ち主。

クレア すべての登場人物の友人ともいうべき女性画家。語り手ダーリーの対位法的な対称点。物語の参加者にして傍観者。ダーリーよりも多くを見通している観察者。

レイラ ネッシムとナルーズの母。ヨーロッパ的な教養を持ちながら、エジプト社会にとどまることを余儀なくされた女性。マウントオリーヴと恋愛関係になり、その後も、文通相手として関係を持ち続ける。マウントオリーヴとレイラの関係と、ダーリーとジュスティーヌの関係は、プルーストにおける、スワンとオデットの関係と、マルセルとアルベルチーヌの関係を祖型としているようにも感じられる。