わたしたちのなかには なにものかが無数に生きている
わたしが思考したり感覚したりしても わたしにはわからぬ、
思考したり感覚したりするのが誰であるのか。
わたしは思考や感覚の
場にすぎないのだ。
わたしの魂は一つだけではない。わたし自身より多くのわたしがある。
だがしかしわたしは存在する、
そうしたもののいずれとも関係なく。
わたしはそうしたものを黙らせる。わたしは話す。
わたしが感覚するもの 感覚しないもの
そうしたもののたがいに交錯する衝動が
わたしであるもののなかでたがいに諍う。
わたしはそうしたものを識らぬ。そうしたものはなにも告げぬ、
わたしであるとわたしにわかっているものに書くべきことを。わたしは書く。
(リカルド・レイス「わたしたちのなかには」227頁)
この詩は謎めいた20世紀のポルトガル語作家フェルナンド・ペソア—―いくつもの偽名でそれぞれに異なった作風の詩を書いた複数的な書き手——の戦略的な分裂性をうまくすくいとっているのではないかという気がする。
わたしのなかには、わたし以外のもの、わたし以外のわたしがいる。原語を確認したわけではないから、あくまで推測だが、これはひょっとすると、「わたしのなかには、わたし以外に、「わたし」という主語を使って語りだすものがいる」という言語=文法的な条件を踏まえての言明かもしれない。
これは意識と無意識の対立の話ではないはずだ。一なるものと別の一なるものの対立ではない。複数的なものが林立しているというのが大前提にあるし、わたしならざるわたしたちは、わたしの無意識というわけでもないだろう。それはむしろべつのわたしであり、その意味で、ペソアが描き出す主体のイマージュは、分裂的な共立であり、裏や底のような空間性ではない。
だからは「わたし」が「場」として想像されるのだろう。複数的なわたしたちが「たがいに諍う」地平である*1。
たしかに特権的な「わたし」はある。それはほかの「わたし」たちを含みこむ「場」としての「わたし」はある。しかしそれはほかのすべての「わたし」たちをまとめたり、折り合いをつけたりする調停者ではない。それどころか、そうしたわたしのなかの異者を認識しながら、傾聴しない。
すでに関係性のなかにある異者たちとの無関係性が宣言される。
ペソアは、いまここの感覚を大切にしているような気がする。思考が感覚より低く位置付けられているというわけではなく、感覚を思考に従属させる(または思考の前段階として感覚を位置付ける)ような西欧哲学の潮流を批判し拒絶しているように思う。
それは、過去でも未来でもなく、現在を大切にする態度、いまをおいてはその前もその先もないという在り方が、前面に押し出されてくる。
ペソアは自分のなかに複数の「わたし」の存在を許容するけれど、同時に、まったくわたしではない他者を自分のなかに歓待しようとする。たとえそれが不可能であるとしても。
ああ うたえ うたえ ただうたえ
ぼくのなかの感覚するものがいま思考する
ぼくの心に注ぎこめ
たよりなげに高く低く流れるおまえの声を
ああ ぼくであるまま おまえになることができたなら
陽気でなにものも意識しないおまえの心をまがものとし
そうした自分を意識できたなら
空よ 野よ うたよ
知識はあまりに重く 人生はあまりに短い
ぼくのなかに這入れ おまえたち
ぼくの魂をかえよ おまえたちの軽やかな影に
そして連れて去れ このぼくを(フェルナンド・ペソア「あわれ 麦刈る女は」19頁)
他者変容の願望は、不可能な希望にとどまる。それはかなえられない願いである。または、あたかもそれがかなえられたかのようなところで、それが実際にかなえられるその手前で、止まる。そして、そのぎりぎりの瞬間で踏みとどまるから、そのような願いが詩に昇華されるのである。