うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

高橋アキの直感的なピアニズム:高橋アキ『パルランドーー私のピアノ人生』(春秋社、2013)

高橋アキのなかにはかなりはっきりとした音響世界があるようだ。そしてそれは、サウンド的であると同時に、ビジュアル的なものでもある。通り抜ける風、きらめく水面。

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その系譜に連なるのが、武満徹であり、モートン・フェルドマンであり、そして、学生時代に先生に卒業課題として出されたというフランツ・シューベルトなのだろう。繊細な推移の音楽。音量というよりも、音色の濃密による変化の音楽。

今考えてみてもシューベルトを通してその頃学んだことは私にとって大事なことばかりであった。たとえば指先に神経をかよわすこと――つまりタッチによってさまざまな音色が得られることへの示唆。先生はよくclair-obscurという言葉を使われた。これは絵画でつかわれる濃淡、ぼかし、明暗法というような意味である。また、シューベルトの音楽の大きな特徴である一見平面的な流れの中の瞬間瞬間のきらめき――たとえば同じメロディを一オクターブ上下に動かすことによって、または同じメロディを長音階短音階の間でさまよわせることによって、また経過的にくりひろげられる店長の微妙さによって得られるこうしたきらめきを生かすための即興的ともいえるような自発的意志。(231頁)

高橋アキがサティに傾倒していることはよく知られている。サティはたしかに武満やフェルドマンの源流に位置する音楽家かもしれないが、高橋がサティを愛する理由は、武満やフェルドマンの音楽を愛する理由とはすこし違っているようにも思う。というのも、サティにあるのは、精妙な推移というよりも、「剥き出しにされて慄えている音たち」(247頁)だからだ。ここに「センシティヴな優しさ」(247頁)があることはまちがいない。しかしここにあるのは、無駄のない削り込まれた美である。

フェルドマンは「美しい音楽はすべて悲しい」と言ったそうだが(247頁)、もしサティ、フェルドマン、武満になにか共通するところがあるとすると、それは「ピュアで悲しい音楽」(247頁)かもしれない。そしてそれは、高橋のピアノにも共通する特徴である。高橋アキのピアノは、どこか憂いがある。

高橋アキは現代音楽のスペシャリストであるが、あらゆるジャンルの現代音楽を引き受けているわけではない。20世紀の戦後の前衛音楽は、大雑把に言って、シェーンベルクからウェーベルンに続く12音技法路線の徹底化(セリー音楽)と、ケージに代表されるような非音楽(偶然性、ノイズ、環境音)への船出に二分されると言ってよいだろう。前者は、いわば、楽譜上で完結するような、演奏以前にすでに完成しているような音楽を目指し、後者はパフォーマンスとしての音楽、出来事としての音楽――楽譜のなかの音楽は未完成で、現実の音、音を鳴らすパフォーマー、音を響かせる空間、それを受け取る聴衆が必要であり、演奏体験と聴取体験の総合こそが音楽になるというような考え方――を追求した。高橋アキは後者の系譜に親近感を抱く。

フェルドマンがよい例だろう。フェルドマンの音楽は、楽譜としてはかなり簡素な部類に入るが、それは演奏されてこそ、体験されてこそ、その真価が見えてくるようなたぐいの音楽である。というのも、フェルドマンの長大な音楽は、「“記憶を持つ音の対位法”によるいくつものパターンを組み合わせた巨大なモザイク構造」(156‐57頁)をしているからだ。

高橋は1980年5月に世界初演されたフェルドマンの弦楽四重奏曲のコンサート(ソーホーのグラフィック・センター)のことを次のように記している。その日、ホロヴィッツのリサイタルを聞いており、それを堪能してすでに疲れ切っていた。固い木のベンチは座り心地がよくないし、ホールの外から聞こえてくる車の音や話し声が気になってしまった。早く終わらないかと思いながら、何度も腕時計を見てしまう。しかし、斜め前に座っているジョン・ケージは身じろぎせずにじっと聴き入っている。

こんな環境の悪いホールにもかかわらず、四人の奏者たちはいっさい動ずるところなく弾き続けていく。それは、水面に風が吹いてわずかな波紋が起こったり、光を反射してきらめいている、そんなわずかな変化を、ゆっくりと細大漏らさず捉えているかのような、優しく美しい音楽だった。そして、五、六分の間同じようなパターンの微妙な変化が続くと、アングルや距離を変えて同じ光景がスクリーン上に違って映し出されるように、異なったパターンが始まる。こうしたいくつものパターンが、長いスパンでランダムに何度かくり返される。知らず知らずのうちに、私の意識もこの甘美な音楽に集中させられていた。演奏が一時間を過ぎる頃には、周囲のノイズも身体的苦痛も全く忘れ、それぞれのパターンが再び現われるたびに懐かしさがこみ上げ、その微細な美しさの壊れやすさを思って悲しくなり、涙が出そうなほどだった。しまいには、いつまでもこのままであってほしいと、いつかこの音楽に終止符が打たれることに対する恐怖すら感じていた。まるで催眠術にかかったようであった。(156頁)

高橋は生粋のピアノ奏者なのだろう。彼女は、ピアノを、何か別の楽器(群)の代替物と捉えることを拒否する。そして、バッハの時代にはペダルはなかったのだからペダルは踏まないという考え方にも賛成しない(233頁)。高橋はピアノにできること、ピアノだからできることにこだわるが、だからといって、西洋音楽の正統派が追求し、確立してきたピアノ音楽や、ピアニストがやってきた伝統なるものに忠実であろうとするわけではない。彼女がサティを愛するのは、サティがそのような西洋音楽の自明性をユーモアたっぷりに、しかしラディカルに、揺さぶるからだろう。

クセナキスシュトックハウゼンピアノ曲に惹かれるのも、「個々ばらばらな音を集めて組み立てていくそのやり方に、新しいピアニズムを感じて感嘆」(144頁)したからであった。つまり、彼らは、ピアノをオーケストラの代用品とするのではなく、ピアノという楽器の構造を突き詰め、その機能を直截的に生かす方向性を追求しているからこそ、高橋からすると、面白いのだ。「クセナキス自身の言うように、エネルギー渦巻く音の星雲」(145頁)のようなものがあるから、面白いのだ。

高橋は現代音楽のスペシャリストと見なされているが、理論派というよりも直感を大切にし、非人称的な理性というよりも自分自身の感性をよりどころにするタイプであるように思う。自分にとって生理的にはまるテンポを模索する人なのだと思う。恣意的にやるというのではなく、楽譜を踏まえたうえで、最終的な決定は、自身の感覚にゆだねる。

その意味で、高橋のピアノは、歌というよりも、語りのようなものなのかもしれない。パルランド。大学生のときの先生であった、バルトークの弟子でもあった、シャヘーリ先生から受け継いだものだ(212頁)。語りかけるような弾き方。民謡のような歌。

とはいえ、理知的な音楽を全否定しているわけではなく、それがそれとして面白いことはしっかり認めているところが、彼女の柔軟さの現れでもある。シェーンベルクがやったことは「頭だけで考えることの始まり」(219頁)と批判的に言及するが、「それぞれが実験としてはおもしろくて、それなりにおもしろい曲もできたわけだからいんじゃないかと思う」(220頁)とも言う。それに、メシアンの「音価と強度のモード」はかなり評価しているようでもある。おそらく彼女が生理的に無理だと感じているのは、セリー音楽のようなものではなく、ミニマル・ミュージックの精密機械的な演奏だろう(278頁)。

 

つまるところ、彼女にとって音楽とは、「生きた運動体」(231頁)であり、「演奏される瞬間瞬間に生命を与えられてゆくもの」(231頁)である。頭ではなく、体が直接に結びつくもの。知的分析だけでは絶対に感知できない、「ある種の官能的とも言えるような運動の喜び」(232頁)含むもの。

長年にわたる短文をまとめた本書は、繰り返しが多く、本としてはいまいちまとまっていない部分があるとはいえ、高橋のピアノの向こうというか手前というか、彼女の依って立つ地盤のようなものが、この本からくっきりと浮上してくる。これはまちがいなく、本書をまとめあげた編集者の手柄だろう。

高橋は、プロジェクトの重要性を強調する文章のなかで、「良い演奏家はたくさんいるし、良い作品もたくさんある。だが、それらがバラバラに自己主張をしてもそこから運動は起こりにくい。そこで良い企画が必要になってくる」(285頁)と述べているが、これは出版についても当てはまることかもしれない。