うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

リアリズムと印象派の融合、または非人称的な抒情性――吉田博展

20210829@静岡市美術館

吉田博が目指したのは、木版画におけるリアリズムと印象派の融合だったのだろうか。初期の水彩風景画から一貫して吉田は構図の妙、光のグラデーション、細部のニュアンスにこだわる画家であり続けた。しかし、風景を凍結された時間のなかに封じ込め、風景のイデアのようなものに迫るのではなく、瞬間的な移ろいを、やわらかなかたちのなかに浮かび上がらせるというのが、吉田のスタイルだろう。木版画であるにもかかわらず、吉田のタッチはつねにソフトで、線的というよりは面的で、かたちが解け出す。

細部の描写はリアル志向だが、写真的ではなく、印象派的な雰囲気がある。吉田は同一の版木を使いながら、摺りを変えることで、一日のさまざまな時間の光と陰翳を表現しているが、これは、モネのルーアン大聖堂の連作を思わせる。たしかに、吉田の木版は、モネの油彩ほどには、現実の細部が画家の印象にのみこまれていない。吉田の光の表現は、特異な私的印象ではなく、非人称的な抒情性と呼んでみたくなるものだ。

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吉田は、アメリカで成功し、アメリカ、ヨーロッパ、インド、中国韓国と、世界をめぐり、名所紹介的な木版画を残している。日本国内では、自ら山に登ってはスケッチして木版画にしているし、東京や京都の街並みを題材にとったものもある。人物が描きこまれることもあるし、建物を描くものもあるがが、吉田の真骨頂はやはり、自然の風景にあったというべきだろう。しかし、題材にかかわらず、光のニュアンスや構図の妙、淡い色彩が作り出す深すぎない奥行は、どの絵にも見て取れる吉田のスタイルである。

とはいえ、ここまで精緻な光のグラデーションや仄かな奥行きを表現することが吉田の追求したものであったとすれば、そのような探求にはむしろ不向きであるはずの木版画というジャンルを選んだのだろうかという気もする。

木版画である以上、輪郭線は必要だろう。多色摺である以上、一枚の絵を部分に分解し、摺り重ねていくためのレイヤーを考えなければいけない。それはいわば、風景や画面の有機性を、意識的かつ人工的に解体することではないか。もちろんそれは、吉田本人というよりも、彫りや摺りを受け持つ職人たちの仕事だったのかもしれないが、下絵を描くだけではなく、すべての工程に積極的にかかわったというから、このあたりのことを考慮に入れて下絵を描いていたのではないかという気もする。題材を探っている段階のスケッチはまだしも、それを素材にして下絵に取り掛かるとき、吉田は絵をレイヤー的に捉えていたのではないか。

江戸期の浮世絵の多色摺は10数枚だが、吉田の木版は平均30枚ほどで、100枚近く重ね摺りしたものもあるという。たしかにそうした超絶技巧的な作品には華がある。たしかにそれは木版画の可能性の追求ではある。しかし、技巧的に卓越した木版画を見れば見るほど、木版画であるべき必然性は低下していくのではないか。

すくなくとも現在から振り返ってみたとき、吉田の多色摺木版は、雑誌の挿絵イラストや絵葉書の図案を思わせるところがある。もちろん、吉田がイラストや絵葉書をまねているのではなく、イラストや絵葉書が、吉田の作り出した風景表現を流用しているのだと考えたほうがよいところではあるだろう。ロートレックのキャバレーのポスターも、似たようなケースだろうか。

木版画は、一点ものの絵画に比べると、商品的であると言っていいかもしれない。アーティスト的というよりも、アルティザン(職人)的。しかしながら、原理的には複製可能ではあるとはいえ、吉田ほどに込み入ったものとなると、まさに職人的な手腕がなければ複製を作ることさえできないだろう。摺りは複数できるが、原版は一点ものだろうし、木版は恒久的ではなく、劣化は避けられないだろう。その意味で、吉田の木版画は、複製可能という意味では商品的だが、大量生産品ではありえないという意味では、作品的である。

吉田博の木版画は、さまざまな矛盾を抱え込んでいるように思う。木版画の生理に反するようなことをあえて木版画にやらせる、という意味で。しかしながら、面的な光のグラデーション、層的な光の奥行は、もしかすると、多色摺木版というジャンルだからこそ表現可能なものだったのかもしれない。