うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

教えて欲しかった英語。フレーズ感。

教えて欲しかった英語。フレーズ感。もし日本人の英語が通じにくいとしたら、それは英語の自然な流れをぶったぎるような真似をしているからかもしれない。もちろん、通じない理由はいろいろありうる。発音が間違っている、抑揚がおかしい、強勢の位置がずれている、文法が正しくない、などなど。しかし、即興でのスピーチということになると、問題は、フレージングの不適切さに集約されるのではないかという気がする。即興でスピーチをすると必ずどこかで言葉が続かなくなり、言いたいことをどうにかひねり出そうとして押し黙ってしまう。沈黙はもちろん必ずしも悪ではないし、ネイティブとてつねに話しているわけではない。彼ら彼女らとて、つっかかり、言葉に窮し、言いなおし、パラフレーズし、繰り返す。しかしネイティブが本能的に身につけているのは、どこでブレスをとればいいのかというセンスだ。大雑把に言って、ブレスはフレーズとフレーズのあいだ、ブロックの切れ目に置かれるべきであり、フレーズの真っ只中にきてはいけない。もしかすると、日本人の演奏する西洋音楽がときにひじょうにダサく響くのは、フレーズ感が日本語的になっているからなのかもしれない。日本語はかなり緩やかな連結を許容するし、先読みがしにくい。逆接になるか順接になるか、最後まで聞かないとわからない。この意味で、日本語の「○○なんだけどー」というのは、その典型だろう。しかし英語はその文法構造上、読み手聞き手が書き手話し手の論旨をなんとなく先読みできるようなところがある。日本語に慣れていると、この英語の感覚的な論理性がなかなか直感的に捉えられないのかもしれない。外国語を効率的に学ぶこと、それは、外国語をクリティカルに、リフレクティヴに学ぶことだと思う。それはたぶん、ネイティヴが直感的にしかやっていないことをあえて分析にかけ、自国語のロジックに落としこみ、それを再び直感レベルまで浸透させるという何重にももってまわった面倒くさい作業なのだと思う。語学の才がある人は瞬時に英語のロジックが呑みこめてしまうのかもしれないが、自分のような凡才はこういう曲がりくねった回り道をゆっくりゆっくりたどることで、やっと、自分の言葉ではない他言語の内部に踏み入っていけるようになるのだと思う。