うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

特任講師観察記断章。グループワークを意識的に導入。

特任講師観察記断章。今学期は最初からグループワークを意識的に導入してみている。きちんと理解してもらうには、こちらから解説するだけでは足りないし、問題を何度も解くだけでも不充分だ。自分で説明できるようにならなければならない。さらに言えば、口頭だけではなく、文章に落とし込むところまでいきたい。
そのようなグループワークをやらせてみて浮かび上がってきたのは、学生たちの英語観の歪みだ。
空欄のあるセンテンスに能動と受動のどちらの動詞を入れるべきかという問題を考えるさい――たとえば、Oder updates _(post)_ in eight-hour intervalsとか、Each container should _(clean)_ every day——、学生たちは、「updatesは「~される」ものだから」とか、「containerというモノは主語にならないから」と言う。つまり、単語=意味内容の性質から、モノの性格から、する側か、される側かを、判断しているきらいがある。
He  is a trainer _(recognized)_ for his workのような文章の場合、「後置修飾だから」という言葉を振りかざしたり、「「認められる」だから」と、動詞を意味に翻訳したり、中途半端なところで説明が止まってしまう。
英語のロジックの大前提とも言うべき、主語と述語と目的語の三者関係にたいする意識が薄い。containerはcleanにとって目的語なのか主語なのか、updatesとpostの関係は、主語述語なのか、述語目的語なのか。
そのような意識がゼロというわけではない。あるにはあると思う。しかし、不完全だったり(述語目的語までは考えられても、主語を忘却する)、ムラがあったり(人が主語で、モノが目的語だとうまくいく)。もしかすると、無生物主語のように、日本語の感覚にそぐわないセンテンスになればなるほど、三者関係にたいする意識が薄くなるのかもしれない。それはつまり、英語を、日本語の感覚で考えてしまっているからではないか。
英語を英語で考えるというのは、やみくもに英語を使えばいいという話ではない。それは、英語という言語が持っている世界観の「なか」に入ること、すくなくとも、母国語の世界観を相対化することであるはずだ。英語を苦手とする学生ほど、英語を日本語に引き付けて考えようとする傾向にあるような気がする。それは直線で円を書こうとするような行為にほかならない(だから英語ができないのだと学生に言うのだけれど、いまひとつわかってもらえていない気がする)。
また、結論は正しいけれど、途中経過が抜けている説明が散見された。「空欄以降が完全文だから、関係代名詞ではなく関係副詞」というのは正しいが、「なぜ完全文だと関係代名詞は使えないのか」まで論じなければ、説明として不充分である。
結局のところ、説明は、トートロジーから抜け出す行為であり、そのために、補助線を引いたり、新たな項目を導入したり、全体を相対化したりする必要がある。説明は、メタ認識をともなうものだから。
そこまで学生を連れていくのは、なかなか並大抵のことではない。