うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

円熟的に批判的に老いること:エマーソン四重奏団の「晩年の様式」

弦楽四重奏団は、肉体的な老いによる演奏技術の衰えと、親密な交わりであるがゆえの人間関係の鈍化や深化と、音楽理解や演奏解釈のマンネリ化や円熟とのあいだの折り合いをつけていくのが難しい組織形態ではないだろうか。

うまく老いたカルテットは多くない。アマデウス四重奏団のように、同じメンバーでとおした団体はまれだが、共に老いていくなか、解釈は練れていったけれど、演奏は甘く荒くなっていった部分がないとは言えない。ジュリアード四重奏団は、ファースト・ヴァイオリンのロバート・マンの触れれば切れるような鋭さが鈍るとともに、60年代にあった鮮烈さは失われていき、メンバーの入れ替わりで若返りはしたものの、団体としての音楽性に一貫性は薄い。

技術的な卓越性がアイデンティティの一部であればあるほど、これらの問題はますます厄介なものになるはずなのだけれど、まさにそのような団体であるエマーソン四重奏団は近年、そのような困難を軽々と乗り越えて、テクニカルなところと音楽的なところを素晴らしく高いレベルでキープしているのではあるまいか。

エマーソン四重奏団は、カリフォルニアにいたとき、何度か聞く機会があって、聞くたびにCD音源の印象が塗り替えられていった。

CDで聞く彼らの演奏は、端的に言って、つまらなかった。60年代の圧倒的なまでの技術的高みにあったジュリアード四重奏団から音楽的なふくよさをマイナスしてデジタル化したような印象があった。言ってみれば、悪い意味でアメリカ的。メカニックにはすごいけれど、音楽としてはものたりない。口さがない言い方をすれば、音楽的には空虚でメカニックだけがすごい。ラズモフスキーの3番の4楽章の超速っぷりは、バレエというよりも器械体操を思わせる。身体的なスリリングさはあるが、内的な高まりではなく、量的な速度による力押し。そんな印象しかなかった。ファーストを交代制にするやり方も、しゃらくさいアメリカ的建前としての平等尊重のようにしか思われなかった。

しかし、そのような見方は穿ちすぎだ。ファーストは兼任されるけれど、彼らは交換可能なパーツではなく、それぞれに独特の個性を持った奏者である。痩せ型のドラッカーは鋭角的な抒情性があり、どっしりしたセッツァーはふくよかな抒情性がある。ビオラとチェロも、深く沈むというよりも、ヴァイオリンの機動性の高さに呼応するかのように、輪郭を際立たせる。中低音でエッジを立てるのは、ある意味では、音域の生理に反することであると思うのだけれど、彼らにはそれをやすやすとやってのける卓越した技術力があり、かつ、加齢によっても衰えることのない驚くほど安定した技術力を、意味もなくひけらかすためではなく、音楽をやるためのあたりまえの前提条件として、いわば無頓着に見せびらかしてしまっているだけなのだ。というよりも、彼らの技術性が鼻につくように感じるとしたら、それは、音楽は技術を超越するものである(技術とはある意味で切れたところに花開くものである)という判官贔屓にわたしたちが気づけていないだけである。

とあるインタビューによれば、エマーソン四重奏団の奏者は、ヴィンテージの楽器も持っているけれど、ユタ州ソルトレイク出身で、ポーランドアメリカ人であるグムントヴィッチの新作の楽器を使っているそうだ。そのあたりにも、意志的なアメリカ性、意識的な脱ヨーロッパ性を感じる。

ヨーロッパを否定するのではなく、旧大陸の伝統を、新大陸の理念によって超越しようという、高邁なる精神の運動。それこそ、ヨーロッパからの知的独立を高らかに歌い上げたラルフ・ウォルド・エマソンの求めたものではなかっただろうか。

最近のシューマン弦楽四重奏曲の録音は素晴らしく深い演奏になっているけれど、自らの僻目(僻耳?)を恥じるようにして彼らのハイドンモーツァルトベートーヴェンの演奏にあらためて耳を傾けると、メカニックな硬さや速さの向こうに、たしかな抒情性が、無味と薄味の絶妙なあわいに潜んでいることに気づかされる。

これはもしかすると、東海岸の慎み深さなのかもしれない。東海岸のエマーソン四重奏団と、西海岸のクロノス四重奏団は、同世代といえると思うのだけれど(どちらも70年代初頭に創立)、クロノスが現代音楽やワールド・ミュージックに振り切っている一方で、エマーソンはヨーロッパ的レパートリーと、その延長としてのアメリカのクラシックな現代音楽に自らを留めているように見える。

ヨーロッパ伝統のレパートリーをなぞりながら、ヨーロッパの伝統的な解釈を洗い流す。そこにはきっと、並みならぬ決意と覚悟があるはずだ。ヨーロッパの重みをもはやあえて引き受ける必要もない彼らの後続世代の軽やかさと比べると、エマーソン四重奏団のシリアスさは、不自然で、中途半端な気もする。そこまで重さを引き受けず、もっとアメリカ的に軽やかに舞えばよかったのではないかという気もする。しかし、まさに、そうした重さをあえて引き受けて今の今までずっと引き受けてきたからこそ、彼らの音楽は美しく熟してきたのではないかという気もする。

作曲家以上に、演奏家の「晩年の様式」は得がたいものではないか。それを、エマーソン四重奏団は、いま獲得しているように思うのだ。

 

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