うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

特任講師観察記断章。ノーガードな正直さ。

特任講師観察記断章。嘘の言い訳をすることを勧めたい気持ちはこれっぽっちもないけれど、ノーガードな正直さをあっけらかんと見せつけられると、さすがに考え込んでしまう。しかしこの愚かしいまでの純真さは、現代日本の教育現場において、教師と学生のあいだの適切な距離感についての暗黙のコンセンサスがもはやどこにも存在していないことのあらわなのかもしれないという気もする。
中間試験に匹敵する大きな単語テストを欠席した学生が再テストを求めるメールをよこしたので、欠席理由を尋ねると、「すみません、寝坊です」というような短い答えが返ってきた。
冬休み中に毎日英語で日記を書くという宿題を課したクラスでは、年明け最初の授業を欠席してた学生が、1週間後に何食わぬ顔で課題を提出しようとする。遅れた理由は何かと尋ねると、「成人式のために実家にいたので」と正直に答える。最初から予定通り提出できないことはとわかっていたのだから、なぜあらかじめそう伝えておくことをしなかったのかと問い返すと、「ほかの授業では問題なかったから…」と言葉を濁すだけだ。如才なさがない。
こうした状況に遭遇におけるこちらの基本方針は、学生に説明責任を果たさせることなのだけれど、それは往々にして詰問になってしまうし、釈明や弁明の言葉のかわりに、重苦しい沈黙が続く。そしてバイトがあるらしい学生はしきりに時間を気にしている。あきれ半分の気持ちで提出物を受け取ると、脱兎のごとく教室から逃げ去る。
学生のオフィスアワー使用の少なさ(皆無と言ってもいい)はこうした状況と無関係ではないように思う。学生にとって教師とシリアスなネゴシエーションをするというのは、端的に言って面倒事なのだろう。学生たちにとって、教師と話すというのは、叱責という罰ゲームーー上記のケースーーであるか、進路相談のような重要案件――留学相談のようなものは定期的にある――のためのレアな機会であるか、そのどちらかでしかないような気がする。もちろん、あたかも友達のようにフラットに言葉を交わすという路線もないわけではないが、それはいわば、教師と生徒という枠組みの埒外の出来事だ。教師と学生が、「教える/教わる」という上下関係をキープしたまま、そのなかで生まれてくる「ともに学ぶ」という水平的な同胞関係をベースにして真剣に話し合うあり方が、学生たちの考え方のレパートリーには入っていないのだろう。
しかしそのような関係のあり方を大人数相手の教室でどうやって教えていけるのか。どうやって実践していけるのか。今年の教育課題のひとつはこれだろう。現実的に存在している距離感――知の上下関係――をキープしたまま、それを打ち消すような別の理想的な繋がり方――学びの協同関係――を重ね合わせていくこと。