うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

特任講師観察記断章。やらないことで発生するかもしれない不利益を怖れる。

特任講師観察記断章。やることで得られる利益を逃すことよりも、やらないことで発生する不利益を怖れている。学生たちの態度をまとめれば、そうなるような気がしている。

自分で読み込むよりさきに、とにかく聞いてみるというのが学生の基本態度であるらしい。聞かないで沈黙しているよりはずっと健全だ。それが省エネ的な怠惰さの表れなのか、「確認をとりたい」であるとか「確証を得たい」という不安払拭のための自己防衛策なのかはわからないけれど、この「とりあえず聞く」態度と、チャット的なメールの書き方の合わせ技のせいで、9割がた説明したはずのことに、念押しの1割を求めてメールを書いてくる学生が後を絶たない。

読解力の問題もあるのだろうけれど、元凶は、文章にたいする態度というべきかもしれない。注意力の欠如と言ってもいい。流し読みするから、重要なところとそうでないところが、混ざってしまうのだろう。いや、読み飛ばしているというよりは、読み飛ばすことがデフォルトの読み方なのかもしれない。丁寧に読むことが、そもそも、学生の読み方のレパートリーに入っていないのではないかという気がする。

もちろん学生全体にこの話を広げるのは、一般化しすぎではある。しかしそれが、オンライン授業だと(というか、提出や参加の割合がリアルタイムで可視化される状況だと、と言うべきでああり、オンライン授業自体はきっかけにすぎないだろう)、妙に厄介なものとして立ち上がってくる。本来であればノイズのようなものが、聞こえすぎてしまうし、本来であればそれほど気にするほどでもないことが、気になりすぎてしまう。

学生をデータ的存在として扱うこと、それが、オンデマンド型講義/オンライン課題提出型のフォーマットの前提条件になっている。学生の存在を確証するのは、彼女ら彼らが提出するデータであり、そのデータの向こうにいる存在は、提出されたデータから遡及的に再構築されるのみである。顔が見えない以上、こちらの学生の認識は、名前と出席番号と、それにタグ付けされたデータ以上のものにはならない。

このような状況下では、提出データのフォーマットの不揃いは、こちら側の手間を増やすことになる。どれだけ配慮しても、かならずエラーは出るし、それは「うっかり」であるとか「なんとなく」という不注意が原因なのだと思う。しかし、Google Formが自動的にデータを集計し、正答率のグラフなどを生成してくれるからこそ、出欠確認のためにダウンロードしたエクセルファイルのなかのデータのいくつかを手作業で直さないといけないことが、何かひどく手間に感じられる。実際にかかる時間など30秒か1分だというのに。

短気になっているわけではないと思う。けれども、普段であれば目くじらを立てるほどでもない――普段であればむしろ微笑を誘うような――小さなまちがいが、いま、すでに擦り切れて、しなやかさを失いつつある神経を、不思議なほど逆なでする。「それはレクチャーのなかで言ったじゃないか」というのは、普段であれば水掛け論になりがちであるし、だからこそ、その議論を続けるのがばかばかしくて途中で折れる気にもなるのだけれど、講義や資料がアーカイブ化されているいま、「ほら、ここで言った/書いただろう」と証拠を突きつけることが可能になっているだけに、「自分は正しい」という自己正当化路線――自己満足しか得られない教育的には不毛な道筋――に陥ってしまいそうになる。

アラ探しがしやすいからこそ、瑕疵ではなく、大きな展望を掲げるべきなのだと思う。しかし、日々の雑事があまりにせせこましいので、どうしてもそちらに引きずられそうになる。非効率を楽しむというか、効率性とはべつの論理を組み立てるべきなのだが、そこまでの余裕がない。さて、どうしたものか。