うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

特任講師観察記断章。統合者としての語学教師。

特任講師観察記断章。社会道徳は時代によって移り行くものだから、わたしたちのほうにもアップデートが必要になるわけだけれども、OSやソフトウェアと違うのは、倫理の最新版のダウンロードやインストールは自動的にお知らせが入らないところだろう。手動でやらなければならない。だから、面倒だ。しかし、最大の問題は、最新版が出ていることにそもそも気がつかないこと、気がつけないことではないかと思う。それに気づかせてあげることは、大学教育の使命のうちに含まれるのではないか。


にもかかわらず、現実はそうなっていない。TOEICをとっかかりにしつつも、そこから大幅に脱線するかたちで、ポリティカルコレクトネスのような問題に学生たちの注意を促すことをいつもできるだけやろうとしているのだけれど、そのたびに、学生たちがこうした問題に依然として遭遇していなかったことに気づかされて、愕然としてしまう。大学2年までいちどもポリティカルコレクトネスという概念に接触することがない大学教育というのは、いったい何なのか。


いちおう本務校を擁護するなら、こうは言える。ジェンダー論のような科目は開講されており、所属学部や学年にかかわらず受講可能になっている、と。しかし、そうした科目がきわめて限定的なことも、どうやら間違いないようではある。学生が悪いのか、大学が悪いのか。


こうして、しがないTOEIC教師が、密輸入的なかたちで、学生たちに倫理を教えることになるのだけれど、自分がそうしたトピックを初めてきちんと教える存在になるのかと思うと、ワクワクすると同時に、ドキドキする。背負う必要もない責任を好き好んで引き受けてしまったようなお節介感がある。自分がこのような仕事を受け持つにふさわしいのだろうかと不安になる。


ロシアの地理学者クロポトキンは、自伝『ある革命家の回想』のなかで、彼が学んだ語学教師について次のように回想している。「彼はロシア語の文法をわたしたちに教えることになっていたけれども、文法についてのつまらない講義をするのではなく、わたしたちの予想とはずいぶんかけ離れたものを聞かせてくれた。文法についての講義ではあった。しかし、ロシアの昔話のなかの言い回しとホメロスの一節との比較であるとか、サンスクリット語で書かれた『マハーバーラタ』との比較があるかと思えば――それらの美しさを彼はロシア語に移し替えて見せた――、シラーの詩行が引き合いに出され、それに続いて、現代社会のあれこれの偏見について辛辣なコメントがあった。そして、またきっちりと文法について語ったのち、詩的だったり哲学的だったりする遠大な一般化のようなものが続いた。/もちろん、そのなかには、わたしたちには理解できないものが多々あったし、それらの深遠な意味をわたしたちは捉えきれてはいなかった。しかし、どのような学びであれ、新たな予期せぬ地平へと、まだ理解が及ばないものへと、わたしたちを開いていくところに、学びの魔法のような力があるのではないだろうか。このようにして、わたしたちは、最初はおぼろげにしか見えなかったものに深く深く分け入っていくように促されるのではないだろうか……どんな学校にもこのような教師がいてしかるべきだ。学校の教師はそれぞれ専門科目を持っており、そうした科目のあいだには何のつながりもない。唯一、文学教師だけが、課程の一般的なアウトラインに導かれ、しかし、そうしたアウトラインを自らが思うままに扱うことを許されており、だからこそ、互いに分かれている歴史学であるとか人文学をひとつに結び合わせ、広大な哲学的・人間的概念によって統合し、若者の頭と心に高邁な思想や霊感を呼び覚ますことができるのだ。」


そう、おそらく、自分が目指しているのはそのような語学教師なのだと思う。