うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

特任講師観察記断章。褒めたり叱ったりという情動的交感。

特任講師観察記断章。大学教育はどこからどこまでのものなのだろう。既存の知の共有と新たな知の創出が、そのコアにあることは確信しているのだけれど、褒めたり叱ったりという情動的交感は、大学教育の範疇に入るのか。入るとすれば、どのあたりに位置付けられることになるのか。

褒めることと叱ることは表裏一体だろう。どちらも、評価と批評を前提とした行為だ。しかし、ただ高評価を与えることと、そこに称賛を上乗せすることは、似ているようで違う。後者は、相手の仕事を、ひいては、そのようにすぐれた仕事を成し遂げたその人の全人格を、肯定することだから。それに、褒めることがあまり元手のかからない行為であることを思うと、コストパフォーマンスはひじょうによい。

叱ることはそうはいかない。褒めることは陽の気を気前よく発散させることであり、どこか解放的な行為だが、叱ることはそうではない。たしかに叱ることで発散されるものもあるが、それはネガティヴな感情であり、マイナスのものを吐き出すと、その一部が自分に跳ね返ってきて、澱のように沈んでいく。まるで負債のように、叱ったほうにもダメージが蓄積されていき、蓄積されたものが自己増殖を始める。叱ったからといって必ずしも届くわけではないことを思うと、叱ることのコストパフォーマンスはかなり悪い。

学生は褒められることにも叱られることにも慣れていないようだ。プラスであれマイナスであれ、心情的に大きく揺さぶられるような、自分の存在そのものにボディーブローを食らうような体験にたいして耐性がない。というより、外からの強いショックがコアにまで及ぶことがないように、心理的なプロテクターを実装しているがゆえに、自発的不感症に陥っているのではないかという気もする。学生が頻繁に見せる卑下は、謙遜ではなく、期待して裏切られないようにするための処世術なのだろう。

褒めたり叱ったりという情動的交感は、正直、しんどい部分があるし、端的に言えば面倒だ。自分の精神的安寧のためには、このあたりの問題はすべて切り捨てて、カントが言うところの「私的な理性使用」(職務規定に粛々と従う)に徹したほうがいいのは間違いないのだけれど、なぜか、褒めたり叱ったりすることを止められない。

褒めるにせよ叱るにせよ、どちらも、言語的パフォーマンスになる。それは、本心であると同時に、演じられたものになる。嘘を言っているわけではないが、やはりどこか真ではない。褒めたり叱ったりしながら、「これは教員としてのペルソナが演じている何かであって、教員でない素の自分だったらやらないことだろうな」と感じていたりもする。しかし、これほどまでに教員としてのペルソナによる「素の自分」の侵食が進んでくると、両者を峻別しようという行為それ自体が無意味にも思えてくる。

ともあれ、正しく褒めること、相手の仕事の出来を正当に評価したからこそ褒めること、褒めるに値すると確信しているから言葉を尽して褒めることは、正しい行為であるし、正しく叱ることも、正しい行為であるとは思う。そして、そうした正しさの心理的負荷を共有することが、教育行為の一部なのだとは思う。まだそこまで確信できているわけではないけれども。