うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

フランシス・ドゥ・ヴァール『動物の賢さがわかるほど人間は賢いのか』、『道徳性の起源 : ボノボが教えてくれること』、『共感の時代へ 』

雑な読書メモを書いておこう。読んでいるテクストにたいする直感的で瞬間的な反応。テクストを正しく説明しているかどうかは気にしない。客観的な正しさではなく、主観的な気づきを記してみたい。

 

「忌まわしい過程は必然的に忌まわしい結果を生むという考え方に、彼[ダーウィン』は反対だった。その考え方を、私は「ベートーヴェン・エラー」と読んでいる。ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンの音楽を、どこでどのように作曲されたかに基づいて評価するようなものだからだ。ウィーンでこの大作曲家が借りていた部屋は、ゴミや、中身が入ったままの室内便器が散らばる、乱雑で臭い不潔な場所だった。この場所に基づいてベートーヴェンの音楽を評価する人など、もちろんいない。同様に、たとえ遺伝的進化が死や破壊を通して進むとしても、それが生み出した驚異の数々の価値が下がるわけではない。」(フランス・ドゥ・ヴァール『道徳性の起源』56頁)

フランシス・ドゥ・ヴァールは行動主義にたいする疑問を呈する。それは、行動主義の基本的な推論——条件付けが行動に影響を与える、または、行動の原因には単純な条件付けがある――というよりも、それが前提としている機械的な生物観——Aという原因はBという結果をもたらすというような単純な因果を実現するマシーン――の問い直しだ。

ヴァールにとって、生物は、そのような機械論的な生命観で捉えられるような単純なものではないし、生物の階梯を認めるにしても、そこに断絶は見ない。つまり、すべての生物は、それ固有のやり方で、感情を持ち、情念を持ち、そして、道徳を持っている。この意味で、ヴァールは、『人間の由来』のダ―ヴィンの直系である。だからこそ、彼は、進化認知論(evolutionary cognition)の立場を取るのだ。

 

ダマシオにとっての哲学的ヒーローはスピノザだが、ヴァールにとっての哲学的ヒーローはヒュームであると言ってよいだろう。それはいわば、理性にたいする情念 passion の従属や服従を批判的に捉えるということでもある。もちろん、理性を否定しているわけではない。理性万能説、理性至上論を批判しているのだ。その意味で、ヴァールは反啓蒙=反カントではなく、非/脱‐啓蒙=カント的であると言っていいかもしれない。

繰り返しになるが、ヴァールは人間と動物のあいだに断絶を見ないのだ。あくまで進化論的な産物として、情念や道徳をとらえようとしている。つまり、ヴァールにとって、道徳は人間の特権ではない。生活における規範は、動物世界にも厳然としてある。「ある」と「べき」の対立は、人間に限った話ではない。動物たちとて、したいようにしているわけではない。

 

『道徳性の起源 : ボノボが教えてくれること』の原書タイトルがThe Bonobo and the Atheistなのは、きわめて興味深い。ヴァールは科学者として宗教に批判的だが、宗教を否定はしない(冒頭で紹介されるダライ・ラマとの共同パネルの話が面白い)。要するに、宗教的感情も、進化論的な産物にほかならないということだろうか。

こう言ってみることもできるだろうか。ヴァールは道徳を科学化できるという主張に懐疑的なのだ、と。それはつまり、道徳という領域を自律的保っておくべきである、という主張と読み替えていいかもしれない。科学が優生学と結託し、差別を正当化する言説に転んだという歴史的経緯を考えれば、首肯したくなる考え方だ。

 

ヴァールはナイーブだと言えるかもしれない。彼のベニヤ説批判とは、つまり、一皮むけばヒトは利己的だという主張にたいするアンチテーゼだから。コアのところに利他主義があるという主張は、利他が利己のシュガーコートではなく、本心から、生物は利他的で(も)あると主張することだから。

利他主義を合理化すること、利他主義を利他的でないものから説明しようとすること、つまり、利他主義は実は利己的なものであると証明しようとすること、それこそ、20世紀後半の進化生物学が数学的な精緻化によって試みたことかもしれないが、ヴァールの主張はずっとシンプルだ。利他主義は、実のところ、利他的である。利他に裏はない。利他は利他である。QED.

「私がボノボを歓迎するのは、チンパンジーとの際立った違いがヒトの進化に関する私たちの見方を豊かにしてくれるからにほかならない。ボノボは、私たちの血筋の特徴が男性優位とよそ者恐怖症だけではなく、調和を愛する心と他者への気遣いでもあることを示してくれる。進化は男性と女性の両方の血統を通して起こるのだから、男性がほかのホミニン(ヒト族)との闘いでいくつ勝利を収めたかだけで人間の進歩を測るいわれはない。進化の物語の女性側へ目を向けたところで害はないし、セックスに注意を払ったとしても同じだ。わかっているかぎりでは、私たちは他のホミニンを征服したりはせず、戦争ではなく愛を通して交雑することで、彼らを絶滅に追い込んだ。現生人類はネアンデルタール人のDNAを持っているし、ほかのホミニンの遺伝子も持っていたとしても、私は驚かない。この観点に立てば、ボノボの流儀もそれほど異質には見えない。」(フランス・ドゥ・ヴァール『道徳性の起源』21‐22頁)

 

利他を讃えることは、動物が社会的存在であること、個体のあいだの絆をもつ生物であることを確証することであると言ってもいい。利他とは、慈悲深いとか自己犠牲的ということではなく、孤立的、個的(だけ)ではないということである。そして、生物の核心に、個ではなく、群としての在り方を据えるような立場である。そのような意味での利他は生物の「自然状態」である。ホッブズ的世界観の否定。

自然淘汰が生み出した特性は、豊かで多様で、一般に思われているよりはるかに楽観を促しやすい社会的傾向を含んでいる。それどころか、私は生物学的特質が人間にとって最大の希望とまで言って憚らない。私たちの社会の思いやりの深さが政治や文化、あるいは宗教の気まぐれ次第という考え方には、ぞっとするばかりだ。」(フランス・ドゥ・ヴァール『共感の時代へ』70頁)

 

「笑いは種の壁さえ越えて伝染する……笑いの共有は、私たち霊長類が他者に対して持つ感受性の表れの一例にすぎない。私たちは、ロビンソン・クルーソーよろしくそれぞれ孤島に暮らす代わりに、身体的にも感情的にも、みなつながっている。個人の自由という伝統を持つ欧米ではこう言うと変に聞こえるかもしれないが、ホモ・サピエンスは仲間によって感情が驚くほど簡単に左右される。/共感や思いやりの起源はあさにここにあり、それはより高度な想像力の領域でもなければ、もし自分が相手の立場だったらどのように感じるかを意識的に思い起こす能力でもない。共感や思いやりは、他者が走れば自分も走り、他者が笑えば自分も笑い、他者が泣き叫べば自分も泣き叫び、他者があくびすれば自分もあくびするといった、身体的同調とともに、じつに単純なかたちで始まった。私たちのほとんどは信じられないほど高い段階に到達し、あくびと言われただけであくびをするほどだ(ほら、みなさんも今、あくびをしているかもしれない!)が、これは、他者と差し向かいの経験をたっぷり重ねてようやく可能になったのだ。」(フランス・ドゥ・ヴァール『共感の時代へ The Age of Empathy』73‐74頁)

ヴァールが言うのは、共感は理性的なものというわけではなく、それどころか、想像力の産物というわけでもなく、きわめて身体的なものであり、いわば、外在的なものの身体的な模倣を前提としている、ということなのだろう。共感は、内側から自発的に起こるのではなく、外側から引き起こされると言ってもいいかもしれない。身体的なつながりが、内的な理解に先行するのだ。

「共感は、何よりもまず、情動的な関与を必要とする . . . 他者の情動を目にすると、自分の情動もかき立てられ、そこから私たちは、他者の境遇について、より高度な理解を構築していく。/身体的なつながりが先にあって、それに理解が続くのだ。」(フランス・ドゥ・ヴァール『共感の時代へ』107頁)

情動は伝染的であるが、それはつまり、わたしたちのまわりには伝染させる/される相手がいるということでもある。動物は社会的なものとして進化してきたのだ。

 

とはいえ、このプロセスは、それほど自動的でも単純でもないらしい。ヴァールは共感が、他者の情動を我が身のものとして感じる能力だけではなく、そこから自らを引き剥がすという別のモメントを必要としていると述べる。というのも、他者の情動を自分のものとして感じるだけでは、他者にたいしてアクションを起こすことにはつながらないからだ。他者を自分として捉えたら、情動を感じてそれで終わってしまう。

他者の情動を自らのものとして感じながら、同時に、自分のものではないと感じることによってのみ、情動を感じている他者にたいする働きかけの余地が出てくる、ということだろうか。その意味で、ヴァールが鏡による自己認識問題には興味がないというのは、わかる気がする。彼にとって重要なのは、自分を自分として認識できるかではなく、他者と自分を同一視しつつ区別できるかどうかだからだろう。

 

ともあれ、共感が進化の産物であり、したがって、人間を含めた動物に共通のものであることを、ヴァールは熱心に繰り返す。ヴァールは人間の特権性を切り崩すが、それによって動物を持ち上げるわけでもない。動物に学べというようなメッセージを発するわけでもない。共感が普遍的な生物的特質であるように、序列化もそうである。生物に共通する特性には、いろいろある。そのひとつに、共感が入っている、ということなのだ。