うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

接触の官能:オクタヴィア・E・バトラー、藤井光訳『血を分けた子ども』(河出書房新社、2022年)

オクタヴィア・E・バトラーは異生物との肉体的な接触を描き出す。節足動物にも似た多数の足に、または、軟体動物の触手のようなものに、全身を抱擁され、包み込まれるという経験。それはひどく肉感的なものであると同時に、おぞましいものでもある。ゼロ距離で、体と体が触れ合う。何ともいえないエロティックな興奮がある。生理的な拒否感とともに、自分を越える存在――物理的にも、知性的にも、社会的にも——に包み込まれること、自分を委ねてしまうことに、不思議な安らぎがある。

究極な接触は、肉体表面が触れ合うことではなく、肉体の内部を触られることだろう。「血を分けた子ども」では文字どおり肉体が切り開かれ、内臓がまさぐられる。「恩赦」ではもっと比喩的に頭の中をのぞかれる。

しかし、触れるほうが支配者で、触れられるほうは奴隷でしかないのかというと、そうでもない。たしかにそこには絶対的な序列はあるが、同時に、奇妙な依存関係、親密としか言いようのない真摯な交流がある。

バトラーのSFが描き出すのは、「もし……であったら」という状況それ自体というよりも——もちろんその点でも充分刺激的で、「話す音」で描き出される言語能力が失われた世界であるとか、神的存在に世界改変能力を付与されたらどうするという状況を対話劇仕立てで提示する「マーサ記」のアイディアは秀逸であるけれど、そうした状況でどのような情動が発生しうるかということなのだと思う。わたしたちが暮らしているのとは別の世界で、わたしたちの肉体はどのように震え、わたしたちの心はどのようにおののくのか。

二つのエッセイは書くことをめぐるもので、黒人女性にとってSFというジャンルで書き続ける困難と、そこにとどまり続ける意志が、静かに強い調子で綴られている。

 

翻訳は悪いとは言わないが、良いとも言えない。なまめかしくウェットな触れ合いが、乾きすぎている気はする。個人的な好みとしてはあまり好きではないが、読むうえでどうしても不服ということもない。語学的には妥当であり、あくまで文体的な趣味の問題としてちょっとケチを付けたくなる。

 

I did not want to be part of a remembered humiliation." ("Bloodchild.")

I don’t want kids, but I don’t want someone else telling me I can’t have any. ("The Evening and the Morning and the Night.")

 

前向きな強迫観念とは、不安になったとか迷いだらけになったからといってやめられないということだ。前向きな強迫観念は危険だ。なにがあってもやめられないということなのだ。(157頁)

Positive obsession is about not being able to stop just because you’re afraid and full of doubts. Positive obsession is dangerous. It’s about not being able to stop at all.