うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

特任講師観察記断章。ブレインストーミングの不承不承の導入。

特任講師観察記断章。人文学にたずさわる者として、大学の経営主義に諸手を振って賛同することは原理的にありえないとはいえ、数年後に社会に出ていく学生たちをビジネス界の言葉と親しませることに反対するところまではいかない。
そういうわけで、「ブレインストーミング」をディスカッションの方法として導入してみるのだけれど、驚くことに、「ブレインストーミング」が何かを知らないばかりか、「ブレインストーミング」という言葉を聞いたことのない学生が少なからずいる。1年ならまだしも、2年後期のこの時期で「ブレインストーミング」を聞いたことのある学生が過半数を超えないというのは、いったいどういうことなのだろう。
(とはいえ、もし学生が「ブレンストーミング」的な精神を方法論として身につけていたら、ディスカッションの時間がここまで沈黙の時間になるはずはないのだから、現状に照らし合わせて考えると、「ブレインストーミング」が学生たちの共通言語のなかに入っていないのは、納得できることではある。)
ともあれ、ブレインストーミング的なことをやらせてみながら気がついたのは、学生たちが捨てるメモの取り方を知らないのではないかということだ。
日本で教育を受ければ、ノートを取るというのは、教師に見られても見とがめられることのないかたちで書きとることであるという意識が刷り込まれてても不思議はない。つまり、ノートはいわばつねに「提出可能」でなければならず、したがって、殴り書きは許されないという感覚だ。または、ノートは「きれい」でなければならないという強迫観念的な美意識。
しかし、アイディア帳は、それはまったく別の原理にのっとって書かれるべきもの。適当に、思い付きで、私的に、どこかに書き写し直すこと前提で速記的に鉛筆を走らせるもの。
そのためにはある種のデバイスがあったほうがいい。メモ帳でもいいし、書いて消せるボードでもいいし、タブレットでもいいけれど、いつもの清書用ノートとは別の、意図的に「雑な」空白が必要だ。そのようなフィジカルな空間を、学生たちはどうやら持ち合わせていないのではないか、ということに先週あらためて気が付いた。
なので、自分がどのようにメモを取り、何にアイディアを書きつけているのかをざっくばらんに語ってみたところ、学生たちは妙に神妙に聞いていた。すでに実践している人からするとあまりにもあたりまえすぎるこのあたりのベタなところを懇切丁寧に説明することこそ、地方における人文学教育の初段階において必須のことかもしれないということに、やっと気づきつつある。