うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

非常勤講師観察記断章。脱線の誘惑との戦い。

非常勤講師観察記断章。SupervisorからÜbermensch。TOEIC関連のコマを8つも教えるのは死ぬほど退屈かと思いきや、意外なことに、決して悪くない。TOEICという縛りがあるからこそ、限られた時間でどこまでTOEICにとらわれない英語の話をできるのかという駆け引きが生まれ、それがなかなか楽しいのだ。

しかしそれは、脱線の誘惑との戦いでもある。この間は、Supervisorという単語から、SuperというPrefixの説明に入り(Super=超える)、Supermanという例を出したまではよかったが、そこからニーチェの超人の話につなげてやろうと思いÜbermenschと黒板に書いたところでさすがにやりすぎだと気づいてすぐさまドイツ語の単語を消した。Visorのほうは、「ここからデリダの『マルクスの亡霊たち』のハムレット解釈で出てきたVisorの話につなげて、見る見られるの不均衡(見られることなく見ることができる)からフーコーパノプティコンの話につなげられるな」と思っていたが、それは一言も口には出さなかった。また別の箇所では、英語における時制の解説をしながら、「ここでバンヴェニストのénoncéとénociationonの区別を持ち出し、「I」と言うIは同じIではないという話からナラトロジーの問題に持っていけるな」とふと考えてしまう。また別の箇所では、仮定法の説明をしながら、「As ifの問題からVaihingerの議論に持っていき、そこにオースティンやスタイナーが強調していた言語=文学におけるIfやCanの問題だとか、デリダが論じていた西洋語におけるComme si系列の表現の問題につなげられるな」という気になってしまう。

実際に教えている以上のアイディアが頭のなかで並行的にストリーミングされており、そちらに絡めとられないように気をつけねばならない。 表面上は粛々とTOEICの解説をする。授業時間の頭で前回やった箇所をミニテストとして実施し、予習ノートを回収し、スクリプトを配布する。教科書の決められた頁数をきちんとさらう。リーディング速度を向上させるための効果的な読み方だとか、イントネーションやアクセントの適切な付け方だとかいった技術論的な部分もしっかりカバーする。

しかし、そこでは、言われざることのほうが、実際に言われていることよりもはるかに多い。ドゥルーズがどこかで述べていたように、VirtualがActualをとりまく雲のようなものだとすれば、この状況とは、Actualを見失いそうになるぐらいのVirtualの濃霧があたりにただよっているような感じだ。

こんな破天荒な授業でいいのかとは思う。こんな教え方でTOEICのテストスコアが上がるのかどうかは相当に疑問だ。しかし、つまるところ、自分が楽しんで教えられることを教えるのが最良の教育なのかもしれないし、意外なことに、生徒の反応は悪くないように見える。ある意味、それが一番不思議だ。