うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

特任講師観察記断章。「安全」でない場所としての教室。

特任講師観察記断章。授業終了時間の理解について、学生たちと自分のあいだには明らかな齟齬があるようだ。こちらとしては、時間ピッタリには始めないのだから、時間一杯までやっていいと思っているのだけれど、学生たちは残り10分ぐらいの時間帯になると明らかにソワソワしはじめるし、教室の後ろのほうから荷物をしまう音すら聞こえてくる。事実、10分以上前に終わっている授業があるらしい。早々に終わった教室からワサワサと出てくる学生たちの物音がホールに響くことは珍しくない。そのような前倒しが全体的に常態化しているような空気のなかでは、規定の時間どおりに終わるというごくごく当たり前のことをやるだけで、かなり居心地の悪い気分を味わうことができる。

それにしても、教室から外に出ていくスピードの速いこと。あっという間に教室が空になってしまう。そんなに急いでどこで何をするのだろうと思わなくもないが、蜘蛛の子を散らすようにという比喩がぴったりくる見事な離散っぷりだ。

けれども注意深く意地悪く観察していると、このマクロな現象の内側では、なかなかに微妙なミクロな関係の力学が作用しているらしいことにも気がつく。ひとりさっと疾風のように消えていく学生もいれば、2、3人のグループで去っていく学生たちもいる。しかし5人ぐらいが上限らしい。グループは形成されるが、小規模なものにとどまるし、グループを横断して何かしらのやり取りが発生するようなことはめったにない。表面的には全員が同じ行動をとっているように見える。だが、その内実はまったく異なっているのだと思う。

我ながら変なことを言っていると思うけれど、学生たちにとって教室は「安全な」場所ではないのではないかという気がする。そこは、長居しすぎると、望まざる関係が発生してしまう場所であり、積極的に拒否はしないが積極的に歓迎もしない他人とスペースを共有しなければならない場所であり、「不安な」場所なのだろうか。

新たな関係が生まれることにたいする不安、それはさらにいえば、未知なるものにたいする恐れであり、変化にたいする本能的な慄きだろう。悪いことにつながりうるという理由で、未知や変化が悪いものとして認識されているのではないのかもしれない。未知や変化それ自体が、不吉で不安なものとして認識されているのかもしれない。もしそうだとすれば、スマホという勝手知ったるバーチャルスペースに隙あらば退却しようとする学生の気持ちも、わからないでもない。

問題は、学生たちが内向きだという点ではなく、学生たちの意識があまりに一枚岩的であるがゆえに、全く開くか全く閉じるかの二者択一しかありえない点だ。少しだけ開いてみるというようなトライアル・モードがない点だ。そして、当然ながら、全て開くというリスキーな選択肢を取る者はいない。学生たちの意識のなかには、まだ何も書きこまれていない空白のフリースペースがいくらでもあるはずなのに、

学生たちはあたかも余白がまったくないかのように、外からのインプットをひたむきに跳ね返すような防御壁を張りめぐらせているように見える。外の世界にたいする不感症が、生存戦略として刷り込まれてきてしまっているのかもしれない。