うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

特任講師観察記断章。余計なこと。

特任講師観察記断章。「余計なこと「を」しない」というのが今の学生の基本的態度だと思うのだけれど、それはいってみれば、近代資本主義の根底にある分業制を生活のあらゆる側面にまで拡大したようなものだ。フォーディズムにおいて、流れ作業につく労働者は、割り当てられた単純作業のみをひたすら繰り返すことになる。作業の簡略化によって、全体の生産効率は上がる。その引き換えに、末端の労働者からは全体の意識が失われる。個々の労働者は自らの労働の意義を把握しづらくなる。まさにたんなる歯車として、理由もよくわからないまま、目の前の仕事にだけ集中しなければならない。そこでは、与えられた以外の仕事をすることは許されないばかりか、そんなことが最初から物理的に不可能な状況に置かれている。余計なことをしたいという欲望は、状況によって、最初から殺されている。職人的感性など、流れ作業の労働者には、不要であるばかりか、悪影響でしかない。強制された近視眼的態度、それこそが、近代資本主義の作り出した労働力としての労働者のメンタリティを知的生活のすべてに拡大投影している学生たちの基本的態度であるように感じる。

「余計なこと「は」しない」は、マニュアル思考であると同時に、未知なるものからの自己防衛策でもあるのだろう。先回りして相手の希望をかなえようという態度は、失敗の可能性を引き受けることであるし、趣味嗜好がますます多様化する現代において、先取りが功を奏するケースなどますます減少する傾向にあろうことを考えれば、他者への配慮がつねに「相手に迷惑をかけない」というゼロベース――プラスにするのではなく、マイナスにしない――の方向に進むのは、むしろ合理的ですらある。余計なことはせずに失敗すれば、責任転嫁できる。何が余計で、何が余計でないかを規定するのは、自分ではなく、周囲だからだ。社会であり、権威筋であり、現体制であり、多数派だからだ。現代における「言われたとおりにしました」は、もしかすると、もはやタテマエではなくホンネなのではないかという気もする。あなたの言うとおりにやって、それでうまくいかなくて、なぜわたしが責められなければならないのか、というスナオな気持ちなのではないか。

「余計なこと」がなければ、いまある世界のかたちはそのまま温存される。では、学生たちにとっていまある世界が「ありうる世界のなかの最上の世界 le meilleur des mondes possibles」(ライプニッツ)として受けとめられているのだろうか。そのようなことはないと思うのだけれど、あたかもそのように世界を受け入れているようにも見える。というよりも、いまここの世界にたいして価値判断を下そうという態度が、最初から、完全に奪われているようにも感じる。これまでの社会生活が、学生たちを、そのような世界観に落としこんできたのではないかと感じるときは少なくない。いまある世界は、いまそのように存在しているという理由で、絶対的に正当化されているかのように。正義は現在の社会のなかにあり、現在の社会が正義であるかのように。

いまある世界にたいして「余計なことは/をしない」態度で臨めば、波風を立てようとするものが十把一絡げにバッシングにされるのも、理解できる気はする。「どのように」波風を立てるかは重要ではない。良い結果につながるのであれば、わるい結果をもたらすのであれ、波風を立てること自体がすでに悪なのだ。この世界観を転倒させなければならない。いまある世界はどこかまちがっており、それを変えていこうと希望し、実際に変えていくことは、まちがったことではないのだという価値転倒が必要だ。

余計なことをやらせてみること、自明化している世界に亀裂を入れてみること、どうやらそれが、最近の授業で追及している方向性であるらしい。言葉にたいする感度を上げること。日本語のセンスを研ぎ澄まさせること。言葉を突破口することで、いまあるのとはべつの世界体験の可能性を実験すること。