20191109@静岡芸術劇場
多様性と多層性と多元性
おそろしく情報密度の高いパフォーマンスだ。幕開けから異常な感覚にさらされる。情報量で圧倒してくるのではない。情報が多様に多層的なのだ。弓のように軽く湾曲した棒を頭の上に載せ、スーツケースを運びながら、パフォーマーたちが舞台の両側からゆっくりと入ってきて、踊り出す。パターンは同じ身振りが、ビートの強い音にあわせて、速度も強度も異なるかたちで一斉に演じられる。早送りとスローモーションが同時に流れているような、不思議な空気がある。脳がハングアップしそうなほどの濃さで、速くて遅い、言葉のないダンスが10分以上ノンストップで繰り広げられる。
舞台はむしろ簡素な造りだ。左手奥に本棚を大きくしたような棚があり、その背後には時計塔のシルエットが浮かび、その手前にはスーツケースを積み上げた山がある。右手奥には麻袋を積み上げた山がある。右手手前にはスチール製の独立した長方形のユニットがあり、椅子が3つ。左手手前端に、フレームだけの家のなかに足踏みミシン、そしてその隣にもスーツケースが多少。積み上げられたスーツケースは、20世紀中盤以降のポップアート的なコラージュをすこし色褪せさせた感じで、どこかノスタルジックだけれど、右手にあるスペースは無機的で人工的である。
インドネシアを代表する芸術家集団テアトル・ガラシを主導する演出家ユディ・タジュディンたちとパフォーマーたちの共同創作である『ペール・ギュントたち』は徹底的に多的なパフォーマンスを提示する。舞台装置自体は、長方形のユニットを除けばほとんど固定しているし、配置のせいで、オープンスペースは舞台中央ぐらいしかないにもかかわらず、ユディたちの舞台空間の使用は圧倒的に自由で多元的だ。舞台にはつねに複数の時間が流れている。舞台にはつねに、演じる者たちとは別の時間軸に属しているように見えるキャラクターがいる。舞台上の空間はつながっているのに、物語上の空間や時間はズレている。客席までが舞台であり、観客もまた劇空間の一部である。
ここでは異質なものによってひとつの空間をシェアされるのだけれど、にもかかわらず、そこで追及されるのは、異質で多様なものの調和ではなく、それらの事実上の単なる同期性と、実際上のズレやギャップだ。ユディ。タジュディンたちがアフター・トークで述べていたように、ここで主題化されているのは、グローバル化のなかますます繋がっていく世界のなか、繋がってしまった他者にたいして増大していく不安という逆説なのだ。
『ペール・ギュントたち』のエンターテイメント性:ダンスとソング
タジュディンたちの共同創造は、きわめてメタ的で、批判的なファクターに充ちており、内容だけを見ればきわめてシリアスな重量級のテクストであるけれども、だからといってエンターテイメント性が犠牲になっているわけではない。
むしろ逆だ。シリアスで難解な批判性は、つねに、エンターテイメント的で直感的な身体性と、交替的に用いられる。『ペール・ギュントたち』はきわめて多言語的であり、役者たちは英語と日本語で会話することもあれば、そのどちらでもない別のアジア系言語さえ用いられる。にもかかわらず、この劇の基調を定めているのは、言語的な意味ではなく、非言語的な表出のほうだ。
それはもしかすると、現代のグローバルなアート市場においては、フランス古典演劇において理想とされたような言葉的会話劇がうまく機能しないからという理由があるのかもしれない。どれだけ字幕が進歩しようと、言語的翻訳において抜け落ちてしまうものはあるし、オリジナルの言語の特異性や伝統性に依拠する割合が高すぎるものは、おそらく、現代においては市場価値が相対的に下がってしまうだろう。
はるほど、リズムが強く出たパーカッシヴな音楽、ホラー映画で使われそうな効果音の使用には、グローバルな分かりやすさや、演出された透明な無国籍性のような配慮がないわけではないのかもしれないが、古典演劇なら言葉の韻律で盛り上げるところで、言葉からダンスへのシームレスな移行や非調和的でアシメトリーなダンスのアンサンブル、唐突な暗転やカラオケへの切り替えを挿入してくるのは、タジュディンという演出家がもともと持ち合わせているセンスであるように思われた。そこに打算や妥協はない。ここでは、言葉と身体が、会話と歌が、意味と表出が、それぞれ等価であり、それを演出家は、後者に力点を置きながら使用しているのだろう。
シリアスな言葉がつねにヴィルトゥオーゾ的なダンスと交替するという構成は、一方において、明示的な意味がパフォーマンスを支配しないようにするための方法論的切断であったと思う。しかし他方では、タジュディンたちのパフォーマンスがそもそも、大きなひとつの全体ではなく、複数のモジュールのコラージュによって出来ているという構造的な要求でもあったように感じた。なるほど、イプセンの劇自体が、幕と場という区切れを持っているわけだが、タジュディンたちの演出ではそれがことさらに前景化されていたように思う。
川口隆夫のようなダンサーのダンスが抜きんでていたことは言うまでもないが、多国籍なパフォーマーたちにしても、SPAC俳優たちにしても、必ずしもダンスを専門とするわけではない役者たちを含め、きわめて身体性の高い、敏捷的で躍動的な動きが舞台の基調を定める一方で、他方には、オーセ役の美加里のように、裳裾の長いドレスを引きずる神秘的な静の動き――その静の動きから突如として飛び出してくる動の動き――があり、動きの質やパターンにおいても、多様性や多層性が追求されていたといってよいだろう。
本プロジェクトのことをタジュディンたちは「Multitude of Peer Gynts」と名づけているけれど、そこにアントニオ・ネグリとマイケル・ハートが提唱した「マルチチュード」の残響を聞き取ったとしても、あながち的外れではないだろう。グローバルな世界のなかのカテゴライズされざる群衆たち、国民国家や民族や階級や性別や趣味嗜好などのすべての既存のカテゴリーの手前に措定される民衆、グローバル資本主義におけるグローバルなプロレタリアート。
なるほど、グローバル資本主義における世界放浪者的プレイヤーであるペール・ギュントは、不安定な生を生きるしかない労働者=プレカリアートというより、厚顔無恥に臆面もなく豪遊する資本家になるだろう。母オーセの死後、ノルウェーを離れ世界を彷徨うペール・ギュントは、奴隷貿易に手を染め、戦争を金儲けの商機とする。金の力で皇帝になるためだ。資本家から預言者や学者への鞍替えというキャリアの流転にしても、持たざるものには不可能な贅沢である。
しかし、ペール・ギュントはその世界流浪をつうじて、帝国主義‐植民地体制を強化し、原住民を孕ませ、マルチチュードを作り出していく。それにある意味では、彼もまた故国喪失者であり、異質な世界に参入していく他者でもある。金銭的に充たされているからといって、精神的に充足しているわけではない。ここでペール・ギュントは、ひとりではないし、ひとつのタイプやひとつのカテゴリーを表象するのでもない。ペール・ギュントたち、それは、グローバル資本主義の功罪含めた複数の顔を別々に具現化しようという試みなのだ。
『ペール・ギュントたち』は2つの意味でイプセンの原作を脱構築する。ひとつの戦略は、この戯曲を、ペール・ギュントのピカレスク的遍歴としてではなく、彼が踏みにじることになる女たちのほうから逆照射するように読むことだ。本舞台にペール・ギュントが3人いるのは、それに対応する女が3人いるからなのかもしれない。母オーセ、理想の恋人ソールヴェイ、そして魔性の女アニトラである。女たちに、イプセンが与えなかった声を与えること、それが『ペール・ギュントたち』の狙いのひとつである。
こうして『ペール・ギュントたち』はきわめてメタ的なところから始まる。舞台左端のミシン台にペールの母オーセが腰かけて縫物を始めると、スーツケースひとつで世界を彷徨わざるをえない人々のダンスが始まる。しかしそのダンスは、実は、劇中劇であった。演出家が登場し、ソールヴェイ役とアニトラ役の俳優たちによる、ペール・ギュントその人とと『ペール・ギュント』という戯曲にたいする正当な批判が力強く押し出される。いわく、ペール・ギュントの正体は1幕1場から明白である、オーセがすでにペール・ギュントの嘘つきではぐらかし屋で誇大妄想狂的なところ――皇帝になる――を見抜いている、ソールヴェイはほとんど出番を与えられず、盲目になってまでひたすらこの子供じみた男を待つだけだ、と。劇前半はあきらかに、フェミニズムやポストコロニアルを踏まえている。
しかしそれは、イプセンを書き換えることを意味するわけでは必ずしもない。というのも、ユディたちは結末を書き換えたり、原作にはないシーンを勝手に付け足したりしているわけではないからだ。彼らの創作はあくまで、イプセンの戯曲にもともと存在する余白に、イプセンが書きこむことはなかったけれど、もし書こうとしたのであれば書きこんだかもしれなかったものを書きこむという、作者に忠実であると同時に作者を完全に裏切る行為にでる。それはもしかすると、フクシマを訪れた古川日出男がノンフィクション・フィクション的な小説『馬たちよ、それでも光は無垢で』のなかで述べている歴史観に近いだろう。
正史を書物に譬えよう。するとこの書はまるで余白がないかのように振る舞う。とはいえ余白はあるのだ。私はそこに手書きにメモを、思索以前の覚え書きを大量に書き込んで、やがて余白だけから「新しい書物」を編む。(74頁)
それに、付言しておくなら、イプセンの『ペール・ギュント』自体がすでにメタフィクション的な可能性を内包してもいる。5幕2場、船が難破するシーンで、船客は「五幕半ばで、主役が死んだりはしません」(毛利三彌訳、論創社、98頁)と口にしている。
ソールヴェイ役とアニトラ役の俳優たちには、キャラクターとしてではなく、現代を生きる女性パフォーマーとして、イプセンの戯曲にある男性性や男性中心主義を批判するチャンスが与えられるし、劇の冒頭に置かれた彼女らの言葉は、ペール・ギュントがまさに現アメリカ大統領のような性差別的で詐欺師的で無責任な嘘つきであることを白日の下にさらす。それはいわば、西洋文学のなかにあるある種のナラティヴの問題性を糾弾することでもある。
ロマン主義者たちをかくも惹きつけたドン・ファンの物語にしても、21世紀のMeTooムーブメントから逆照射すれば、グローバル規模の連続強姦犯にほかならないだろう。女性原理による救済には、ある種の神話的な射程があることはまちがいない。母系神話があることや、母権性的社会があった/あることは、虚構ではない。しかし同時に、それがいかに男にとって都合のよいものとして機能してきたのかが、ここでは明るみに出される。母にして妻にして穢れなき女(121頁)という矛盾する属性を表象することを任されたソールヴェイは、もはや生身の女というよりは、概念としての女――ゲーテがファウスト第二部の最後の最後に置いた「永遠に女性的なものdas Ewig-Weibliche」(72頁)――であり、その劇的重要性にもかかわらず、出番から言えば端役にすぎないくらいだ。
ペール・ギュントは一方において帝国主義的な植民者であるし、その観点からすると、トロルの娘との結婚は、異世界の魔物との婚姻というよりは、植民地征服であるとか異人種間結婚のほうを思い起こさせるし、トロルの娘を孕ませるという話は、西洋植民地主義が各地で生み出した混血の子どもたちを想像させずにはおかない。だから、トロルの娘までもがアニトラ役の俳優によって演じられていた(と思うのだけれど)のはまったく筋が通っている。アニトラというファム・ファタルは、要するに、エドワード・サイードが『オリエンタリズム』で指摘したように、オリエントに存在するものであると同時に、西洋がオリエントに投影した自画像でもあるのだ。トロルの女にせよ、アラブの女にせよ、どちらも西洋の幻想が入り混じる虚構と現実の混淆である。
しかしながら、ソールヴェイとアニトラが、セリフとしてはイプセンに忠実なところにとどまるとしたら、オーセだけは役として増幅されているといっていいだろう。オーセだけが、オーセとして、ペール・ギュントの誇大妄想狂的な傾向を持つに至ってしまった過程を説明しようとする。とはいえ、ここで明らかにされるのは、ペール・ギュントの異常性が、彼個人にだけ特有な属性というよりも、母子家庭における家庭環境であるとか、母が子に語って聞かせた冒険譚やおとぎ話のようなものにあったことがほのめかされる。ペール・ギュントはその意味では環境の産物ですらある。ペール・ギュントは突然変異ではなく、家父長制的で男性中心主義的で、性差別主義的で人種主義的な西洋近代の平均的帰結でしかない、それが、『ペール・ギュントたち』で打ち出されていくテーゼのひとつであるように思われる。
タジュディンたちはこの図式をさらに転倒させる。17世紀(だったか?)のある宣教師の言葉が引用される。アジアに住む者たちは子供じみており、命令に従えず、約束が守れず、欲望に流され、云々。しかしこのあからさまに帝国主義的で植民地主義的な見下しの言葉が、すぐさま、ペール・ギュントに跳ね返ってくる。西洋近代の啓蒙主義を大上段に振りかざす植民者こそ、彼らが嘲りの対象とする現地人たちの属性をことごとく持ち合わせているではないか! ファウストはメフィストフェレスを、ダンテはヴェルギリウスという先達を必要としたが、ペール・ギュントたちにはそうしたダブルが存在しないのは、むしろ当然かもしれない。ペール・ギュントは、同時に、ファウストでありメフィストフェレスであるのだ。分裂的に複数的であるペール・ギュントたち。
メタ化されるイプセンの『ペール・ギュント』:プレカリアートたち
タジュディンたちによるもうひとつのメタ化戦略は、ペール・ギュントを故国喪失者にして世界放浪者として描き出すことである。アフター・トークのなかでドラマトゥルグのウゴラン・プラサドが語っていたように、ここでは、『ペール・ギュント』のなかでもっとも上演しづらい4幕が増幅される。
それは戯曲史的なところから言えば、『ファウスト』第2部の直系の子孫である。神話的なレベルで繰り広げられる、植民地的でオリエンタリスト的なグランドツアーだ。ただし、ゲーテにおけるそれが18世紀後半から19世紀前半という古典主義美学とロマン主義的想像力の合いの子であり、ギリシャ神話の異教的イマージュとキリスト教的なイマージュとの混淆であったのにたいして、イプセンのそれは、はるかに帝国主義的でオリエンタリスト的である。
ゲーテにせよイプセンにせよ、彼らの「世界」はヨーロッパを中心として、せいぜいエジプトあたりまでしか広がっていないように思われるけれども、ウゴランたちはこれを南アジアや日本にまで一気に拡張する(しかし、ここでも付言しておくなら、イプセンのテクストのなかにすでに、インド南部のマラバールへの言及がある(87頁))。そしてその拡張は、大航海時代以降に始まる西洋のアジア進出を考えれば、歴史的にまったく正しいのだ。すでに言及したように、宣教師たちはアジアに進出していたし、西洋による布教や貿易が、アジアの物流や地勢を暴力的に変容させてきた。そしてそのグローバルな経済的、政治的、宗教的な暴力が、現地の人々の生活を――ある意味ではある程度まで富ませもしたけれども、それは歴史の輝かしい小さな表面であり、その裏には暗い地下世界が厚く広く積み重なってきている――破壊し、離散させてきた。
『ペール・ギュント』の世界は、すでに、ゲーテが奔放な想像力によって描き出した神話的精神世界というよりは、グローバル資本主義による搾取と征服の世界と通じている。グローバリゼーションという歴史的潮流こそ、プラサドとタジュディンにしてみれば、イプセンの『ペール・ギュント』という1867年出版の古典戯曲を現代に接続するための手がかりなのである。彼らがアフター・トークのなかで述べていたように、彼らをイプセンの『ペール・ギュント』に惹きつけたのは、現代世界における繋がりの増加と、そこから逆説的に湧き上がってくる、繋がってしまった他者にたいする不安や恐怖の問題である。彼らはイプセンの余白にすでに書きこまれていた現代の可能性を、現代における難民や移民の問題と接続する。
イプセンは『ペール・ギュント』のなかで、植民地搾取をあたかも哲学的思索であるかのように語るドイツ人キャラクター――当然ながら、そこで意識されていたのは、世界史を理性の前進と捉え、理性を体現する西洋が非理性的な他者にたいして暴力をもって征服することに哲学的なお墨付きを与えたヘーゲルだろう――を登場させていたけれど、タジュディンたちはそれをモノポリーに興じる資本家的プレイヤーたちとして寓意化する。プレカリアートたちは、プレイヤーたちの振るサイコロのなすがままにコマを進む。舞台右手のスチール製の長方形のなかは、資本家たちのゲームの領域であり、その周囲に浮かび上がるカラフルなマス目は、翻弄される労働者たちの領域である。それはまさに、グローバル・エグゼクティヴと、末端労働者たちとのあいだの分断の形象化だ。プレイヤーたちには盤面しか見えず、コマたちはループするマス目を進むだけである。プレイヤーには人間が見えていない。コマには全体が見えていないし、どこから指令が来るのかすらわかっていない。両者は同じこの地球に住み、資本家の欲望が労働者たちを動かしているというのに、その両者に開かれている回路は、上から下に伝えられる命令だけである。
しかしながら、プレカリアートたちが物言わない存在として描かれているわけではない。ここで興味深いのは、劇前半で試みられた女たちの物語のメタ化が、依然としてイプセンのテクストにたいする忠実さを温存していたのにたいして――すでに指摘したように、ソールヴェイというキャラクターにもアニトラというキャラクターにも、キャラクターとしては、新たなセリフは書き加えられておらず、唯一オーセだけがそのような特権を享受していたように思う――4幕のメタ的な増幅は、新たなテクストの書き足しを含むものであり、それはもはや単なるメタ化でもなければ、イプセンの主題による変奏曲でもなく、創造的な翻案となっていた点だ。
女たちの物語においては、「ソールヴェイ」と「ソールヴェイ役」、「アニトラ」と「アニトラ役」のあいだには、明確な継目が存在していた。『ペール・ギュント』を劇中劇として演じているという設定、ワークショップ的な討議、演出家の存在が、役柄と役者のあいだの絶対的な差異を強調していたけれど、プレカリアートたちの物語が中心となる後半においては、それが消えていく。「アニトラ役」は「アニトラ」のセリフから切れ目なく、しかし唐突に、自らの物語を語り出す。スリランカにおける宗教対立、安全にたいする不安から民衆のあいだに湧き上がってくる強権的な政治へのノスタルジア。
『ペール・ギュントたち』と複数化されたタイトルには、「わくらばの夢」という副題がついているが、それは本劇の力点をどこあるのかを端的に示している。「わくらば(病葉)」だと婉曲すぎてわかりにくいかもしれないが、英題はストレートだ。「Asylum's Dreams(精神病院の夢)」*1。つまり、『ペール・ギュントたち』は、イプセンの『ペール・ギュント』4幕13場の拡大なのだ。
イプセンはそこで、考古学者に転身したペール・ギュントが、カイロの学士院を訪れるシーンを描いているのだけれど、すぐさま判明するように、学士院の前身は精神病院であった。世界を狂気の劇場と捉えることは、文学的想像力としては、王道的な部分もある。この世は「痴れ者の意味のないたわごと」とシェイクスピアは『マクベス』で書きつけているし、自らを王であるとか王女であると妄想する精神病患者たちが偶然から街をのっとってしまうというような短編をポーは描いていたはずだ。理性ではなく狂気がこの世を支配している、そのような悲観的世界は、カフカやベケットのような文学的世界の極北の荒涼の大地を描き出した20世紀たちの作家たちによってさらに豊かなものになったけれど、そのモチーフは『ペール・ギュントたち』ではさらにねじれている。
なぜわたしたちは狂わされているのか、「なぜわたしたちが不幸せunhappyであるのか」、それがここでの本源的な問いであるように思う。わたしたちを狂わせている元凶は、ある意味では、明らかだ。グローバル資本主義であり、世界の暴力であり、そうした暴力を無批判に内面化する者たちである。しかし、もし原因が判明しているとしても、それによって解決策が直ちに降ってわいてくるわけではないし、原因が判明しているからといって、それらがどのように機能するのかというメカニズムが解明されているわけではない。
こうして、さまざまな狂おしいパーソナルなエピソードが、イプセンの『ペール・ギュント』の余白に書きこまれ、そうした余白への書きこみから、新しい書物が生まれてくる。それが『ペール・ギュントたち』である。
ベルリンを旅しているHIV陽性患者、ベンチに座ってペットボトルの水を飲んでいると、ホームレスがやってきて水を恵んでくれという、ボトルを渡すと、ホームレスは薄汚れた指でボトルの口を拭い、はたと動きを止め、「あんたはエイズか」と尋ねる、「そうだ」と答えると、ホームレスは水を突き返して去っていく。
また別の語り。14歳のときから寄宿舎で生活し、敬虔なイスラム教として、宗教の敵という考え方や感じ方を刷りこまれた。
さらに別の語り。時間があればソールヴェイのように縫物を習いたい。でも、ファッション産業は石油産業に次ぐ環境汚染ファクターなのです。
救済されるペール・ギュント、救済されないペール・ギュントたち
『ペール・ギュントたち』は、インドネシア、東京、静岡と、3つのフェイズをとおして練り上げられてきたのだという。そしてSPACの俳優のほとんどは最後のフェイズで加わった新参であるらしい。そのせいなのか、やはり、タジュディンに近しい俳優たちと、SPACの俳優たちのあいだに、微妙な練度のズレがあったようにも感じた。それはSPAC俳優が技量的に劣っているということではなく、ただ単に、タジュディンやオウラサドが作ろうとしていたものとどれだけうまくシンクロできていたのかという経験値の差だったのだろう。
3つのフェイズをとおして発展させられてきたからなのか、シーンごとの完成度も少々歪なところがあった。やはりアンサンブルとしてのダンスとしては冒頭が圧倒的に抜きんでていたし、トロルの婚姻のシーンも、マスとしてのまとまりがあった反面、後半に進むほど、アンサンブルとしての親密さや緊密さが下がり、パフォーマーの個人技に依拠する場面が増えていったようにも思われた。5幕の幕切れのアンサンブル的ダンスは、幕開けのものよりは劣るとはいえ、エンディングとして相応しいものに昇華されていたけれど、放浪ののち失意のうちに故郷に帰還したペール・ギュントのを表出する川口のダンスは、なるほど、個人技としては傑出した出来であったとはいえ、もはや劇中のメタ公演のようであり、パフォーマンス全体にうまく組み込まれていたのか、逆に疑問を抱かせるものであったかもしれない。
しかし最大の問題は、劇前半のフェミニズム的批判と、劇後半のプレカリアート的主題とが、最終場においてうまく結びついていなかったところではないか。イプセンの幕切れは、ゲーテ的な主題を忠実に引き継ぐものである。放蕩を繰り返した男が、女性的なものによって救済される、それはダンテの『神曲』におけるベアトリーチェという装置であるし、さらに言えば、キリスト教におけるマリア信仰が背後にあり、さらにその向こうには、人類史レベルにおける母性原理への依拠があるのだろう。モーツァルトの『ドン・ジョバンニ』で、ドン・ジョヴァンニは最後まで改悛を拒否し、彼が殺害した騎士団長の亡霊によって地獄に落とされる。『ファウスト』においては、いちどは悪魔の手に落ちたはずの魂が、マルゲリータによって救済されてしまう。そして『ペール・ギュント』において、審判おける判決は先延ばしにされ、ペール・ギュントはソールヴェイの膝の上で子どものように抱すくめられ、救われてしまう。しかしそれは、冒頭で行われたペール・ギュントというタイプにたいする糾弾と、どのように符合するのだろう。ペール・ギュントは赦されうる存在なのか、本当に彼を赦してよいのか。
とはいえ、タジュディンたちが、『ペール・ギュントたち』を、イプセン的な暫定的ハッピーエンドで締めくくっていたわけではない。ペール・ギュントが舞台前方左手で母体回帰を表すかのようにうずくまってソールヴェイ*2とひとつになっているその向こうでは、現代のペール・ギュントたちのプライヴェートな告白が再び開始される。
スーダンの難民キャンプにいる男は、過去は忘れたい、未来は知らないとつぶやく。「好きな歌はある? Do you have a favorite song?」、それはこの劇で繰り返されるライトモチーフであり、希望のモチーフである。プレカリアート的な労働者にしても、依然としてユートピア的な過去の記憶を持ち合わせていること、たとえ寄る辺なき現実世界のなかで生き抜かねばならない彼女ら彼らにしても、その心のうちには依然として故郷のようなものを携えていることをほのめかす、希望のモチーフであった。しかしそれが、最後の最後にきて、役に立たなくなってしまう。スーダンの難民キャンプにいる男は言う。「好きな歌はない、過去は忘れたい、未来は知らない。」
幸福に救われたらしいペールとソールヴェイのかたわらで、救われることのない、救われるための手がかりすら持ちあわせていない現代の移民たち難民たちの姿が浮かび上がる。そして舞台は突如として暗転し、わたしたちは暗闇のなかに突き落とされる。
それは恐ろしい瞬間だ。しかしこの深淵の恐ろしさこそ、『ペール・ギュントたち』をとおしてタジュディンたちが探求しようとした現代の問題だったのかもしれない。ここに答えは与えられていない。しかし、問いは投げられた。それをわたしたちはどうすべきなのか。