ふじのくに⇔せかい演劇祭2019、ミロ・ラウ『コンゴ裁判』

20190427@グランシップ映像ホール

コンゴ裁判』はノンフィクション・フィクションとでもいうべきドキュメンタリー作品である。登場するのはすべて実在の人物であり、誰もが本当の言葉で語る。600万人以上の死者を出した20年以上にわたる紛争のなか、第三次世界大戦とも呼ばれるコンゴ戦争のなかで起こった虐殺、暴力、搾取について、さまざまな角度から、生々しい言葉がスクリーンに映じられる。現地住民たちの声、亡骸を悼む声、虐殺に憤る声、環境を汚染する採掘会社を批判する声、仕事を奪った外国の採掘会社を責める声、何もしない政府を咎める声。コンゴの軍隊の声、暴力による対抗戦略がエスカレートしていくコンゴの私兵の声、正しく介入してくれない及び腰の国連軍の声。多国籍企業である採掘会社の傲慢な声、植民地主義の残滓から狡猾に合法的に利益を引き出そうとするEUの声。言い訳がましい政府高官たちの声、鷹揚な知事の声、状況を改善しようと奔走する現地のアクティヴィスたちの声、そして、そうしたアクティヴィストたちと協同しながら、なされざる正義をなそうとするヨーロッパ人たちの声。そしてなにより、正義を求める声。

錯綜する現実をそのまま反映させるかのように、ミロ・ラウは、現実をわかりやすく還元しようとはしない。だから、公害を引き起こした会社にどのような補償を求めますかという質問にたいして「牛一頭と住むところさえもらえればそれで十分です」と答えるおずおずした女性の声と、リゾート地とおぼしき湖岸のテラスに悠然と腰かけ「法律的にはまったく問題ありません」とぬけぬけと語るグローバル・エリートらしき採掘会社の女性の声が、注釈なしに、素材のまま対置されていく。コンゴ国家と、列強大国や多国籍企業との微妙な共犯関係や癒着関係がほのめかされる。外国企業に憤りながら、それらを追い出すことまでは求めていない労働者の態度が浮き彫りになる。政府に失望しながら、依然として政府の介入に希望をかける住民たちの意思が描き出される。ミロ・ラウが提示するのは、相容れないさまざまな声からなる不協和音的なポリフォニーであり、言葉以上に雄弁に語ってさえいる顔の表情や体の動作からなるモザイク状のカオスなコンポジションである。

ここに演技はないだろう。もちろん、多国籍企業の代表者や政府高官たちは、必ずしも真実を語っていない。身元が隠すために黒い防護服に身を包んで証言台に立ったある私兵は、「性暴力をふるっているという疑いがありますが」と尋ねられると、「強姦なら政府軍だってやっている」と責任転嫁する。彼ら彼女らの取り繕いや言い逃れは、見苦しかったり、真実味を欠いていたりするが、だからこそいっそうリアルでもある。真実から目を背けようという態度、真実を語ろうとしない態度、真実を隠蔽しようという態度もまた、コンゴ戦争をめぐる真実なのだろう。ミロ・ラウの『コンゴ裁判』は真実を、ただ真実のみを映し出そうという意志に貫かれているが、スクリーンに映し出されるのは、ただひとつの真実ではなく、さまざまな真実である。個人的な真実もあれば、ある集団にとっての真実もある。しかし、『コンゴ裁判』が、ポリフォニー的でモザイク状の断片的アセンブリーによって表象しようとしていたのは、普遍的な正義という真実ではなかっただろうか。

ミロ・ラウの『コンゴ裁判』の核心にはいくつかのフィクション性がある。ひとつには、コンゴ東部のブカヴとドイツのベルリンにおいて2015年5月29日から31日にかけて開催された6日間に及ぶ審理と証言が、あくまで模擬裁判であるという点だ。本来の裁判に備わっているはずの国家的権威や法的強制力を持たない、架空の法廷である。ふたつめは、映像そのものの編集性である。たとえば裁判のシーンでは、ドキュメンタリー映像が、証言としてはめ込まれている。3つの事例――採掘がもたらした公害、軍隊の暴力と私兵による対抗暴力、虐殺と政府や国連の無反応――をめぐって、模擬法廷における生の証言と、記録映像が組み合わされる。コンゴ戦争という出来事があり、それについての証言や映像という証拠がある。それらが模擬裁判で提示され、それをさらに映像化したものを、わたしたちは追体験するのである。もしかするとわたしたちは裁判そのものを傍聴しているかのような印象を抱くかもしれないし、自分が裁判の傍聴者であるかのような錯覚を抱くかもしれないが、『コンゴ裁判』は、リアルとフィクションの関係ををさまざまなレベルで問い直す複雑な映像作品にほかならない。

そのような複雑なフィクションが体現しようとしているのは、単純な正義ではありえない。だから、「模擬裁判のあと、政府高官が罷免された」という事実がエンドクレジットの一部であるかのように控えめに表示されたとき、そこに希望を見い出しすぎないほうがいい。ミロ・ラウは映像のなかで、この裁判は「象徴的裁判であり、人民の裁判であり、パブリシティのための裁判」であると述べていたが、3つ目の部分を強調しすぎることは、正義の問題を宣伝の巧拙に解消してしまうことに、正義の執行可能性を知名度や注目度の向上の問題に還元してしまうことになりかねない。

最後に挿入された2つのシーンはこの点できわめて示唆的だ。ひとつめのシーンでは、丘の上にいる軍隊を指さしながら、「あんなに近くいたのに、虐殺が起こったとき、軍隊は何もしなかった」とつぶやく住人が映し出される。黙って見すごすことは共犯者になることであり、無言であることは罪深いのである。しかしながら、それに続いて、美しく咲き誇る花壇に林立する白い十字架を前にスマホでセルフィ―をとる二人組の姿は、現代における情報拡散のモードにたいする皮肉なコメンタリーである。どんな悲劇をも、SNS映えするかどうかというあけすけなパブリシティーの問題に貶めてしまうことにたいする警告である。

多数派の賛同が必ずしも正しくないことは、20世紀の歴史(たとえばファシズム)が繰り返し証明してきた。しかし、少数派の極論が危険であることは、21世紀の歴史(たとえば宗教テロ)がわたしたちに告げようとしていることでもある。ミロ・ラウの『コンゴ裁判』がわたしたちに思い出させるのは、正義の普遍性であり、正義の遍在性ではないだろうか。国家や国際機関のような権力組織も、裁判所のような場も、裁判官や判事のような職も、正義のために絶対に必要な要件ではない。正義は、すでに、ある。わたしたちのなかに、わたしたちのあいだに、すでに、ある。だからわたしたちは、いまある世界の在り方を問い質し、それを変えていきたいと希望するのだ。もしかすると、正義をこの世に到来させるために必要なのは、つねにすでにいまここにあるはずのものを、本当の意味でわたしたちのものにすることではないだろうか。演劇だからこそ語りえる真実、それは、演劇というフィクションの起動させる想像力実験が、わたしたちみんなのうちに、この世に正義があってほしいというノンフィクショナルな希望の萌芽を芽生えさせるということではないだろうか。ミロ・ラウの『コンゴ裁判』はそのような希望の種子をわたしたちに贈ってくれていた。