うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

自律と啓蒙のススメ:中野好夫『私の憲法勉強』(講談社現代新書、1965;ちくま学芸文庫、2019)

一般市民の果たすべき義務と責任についての倫理的問いかけ

倫理的に考えれば騙す方が悪い。しかし、だからといって、騙された方に責任がないわけでもない。騙された方が責任を問われないわけではない。とくにそれが個人同士の事柄ではなく、国全体を巻き込む戦争の場合は。なるほど、「政府お抱えの専門家たちに、政府に、わたしたち純真な市民は騙されたのだ」と嘆くことはできるだろう。しかし、そのように自らの無垢さを声高にアピールしてみたところで、すでに起こってしまったことは、すでに為されてしまった悪は、決して無かったことにすることはできない。たとえどれほど間接的でどれほど微小であろうと、わたしたちがその悪に加担していた。わたしたちは共犯であり清廉潔白ではなかった。だから、被害者面を被りとおしつづけるわけにはいかないのだ。そうであればこそ、同じようなことが二度と繰り返されないように、次に「騙される」可能性を潰すために、わたしたちは自らを教育し直さなければならない。

英文学者の中野好夫が、敗戦から15年ほど経った頃、自らが素人であることを承知のうえでまったく畑違いの憲法議論にあえて踏み込んでいったのは、自らを含めた戦中の一般市民の振る舞いの愚かしさにたいする反省の念からであるようだ。しかし、ここにあるのは、悔恨の念だけではない。ここには、一般市民の果たすべき義務と責任についての倫理的問いかけがある。

自律と啓蒙のススメ

素人が玄人に太刀打ちできないというのは真実かもしれない。投資してきた時間や労力が絶対的に違うのだ。だから一般市民が、たとえば憲法議論において、専門家に敵わないのはむしろ必然的なことである。専門家のほうが圧倒的によく知っているし、インサイダーとして様々な事情に通じてもいるだろう。表でも裏でも、正攻法でも裏技でも、専門家のほうが一枚も二枚も上手である。

しかし、だからといって、一般市民は自らの判断をすべて専門家にゆだねていいのか。専門家が「よい」というものを盲目的に信じてよいのか。政府が言うことを無批判に受け入れて粛々と従うだけでよいのか。

中野がここで描き出そうとするのは、頑なで独りよがりな否定の姿勢ではなく、柔軟で健全な懐疑の姿勢である。「政府や専門家が言うことはとにかくなんでもかんでも否定しろ」という結論ありきの態度ではなく、向こうが言うことを丸呑みにせず、とりあえず疑いのまなざしを向け、問題を丁寧に自分で考えてみて、そのうえで結論を出すことである。それは要するに、自律と啓蒙のススメである。

 

「いっしょに勉強するつもりで読んでいただければ」

ここで中野が演じようとするのは、「先生」ではない。というのも、もしかれが「先生」として他の一般市民に講釈するようになってしまえば、彼もまた、たとえ善意の行為であるにせよ、一般市民を「騙す」側に回ってしまうし、一般市民は「騙される」側に留まることになってしまう。だからこそ、中野は「いっしょに勉強するつもりで読んでいただければ」と最初に述べているのだ(13頁)。中野はほとんど同じ言葉を、1965年に付されたまえがきでも繰り返している。「わたしといっしょになって勉強していただければ幸いだと思います」(3頁)。

中野はたしかに先達を務めるのではあるけれど、従うべき絶対的権威としてではなく、隣を一緒に歩みながらともに学んでいこうとする伴走者であろうとする。そしてこの中野の姿勢を、わたしたちは忘れるべきではない。わたしたちは中野の議論に全面的に賛成する必要はないし、おそらくそれは中野も求めていないだろう。

もちろん、憲法が押しつけであるという議論がいかにお粗末なものであるか、GHQが押しつけることになった裏には日本政府側の草案の情けなさのせいであったか、改憲論者の構想する社会がいかに個人の権利を抑圧するものになるものであるかを、中野が読者に学んでほしいと思っていることは明白である。中野が戦後憲法の支持者で、戦後の民主主義体制の擁護者である点については、まったく疑いがない。中野は改憲論者の魂胆に警戒心を抱いている。その真の姿を暴露することによって、その真実を一般市民の人びとにも見抜いて欲しいと切望している。

中野の議論は半世紀以上を経た21世紀の現在でも不気味なほどアクチュアルに響く。それはつまり、改憲論者のロジックやイマジネーションが半世紀のあいだ、大して変化していないということなのかもしれない。改憲論者が基本的に伝統主義者であり、さらに言えば、妄想と空想のノスタルジストーーなぜなら改憲論者の思い描く伝統的日本社会の伝統性ときたら、本当に古より連綿と続いてきた歴史的なものなのか、それとも、歴史学者ホブズボームが「伝統の創出」と名付けたような、近代に始まったものが伝統として偽装されただけにすぎないのかが、定かでないことがしばしばだから――であることを思えば、そして中野がターゲットとする戦後自民党の保守派の大御所の岸信介とその孫にあたる安倍晋三のあいだで引き継がれているものを思えば、中野の議論がそのアクチュアリティを失っていないのは当然である。しかし、にもかかわらず、21世紀の読者であるわたしたちが中野から学ぶべきは、中野の改憲反対論の骨子(だけ)ではないように思われる。

では、何を学ぶべきなのか。

 

考えるプロセスをシェアする

市民は素人である。当然ながら市民のなかには専門家もいる。政治家も官僚も、大学教授もシンクタンクの分析家も、みな市民である。だから、市民すべてが素人であるというのは正しくないのだが、集団として捉えられた市民が専門家集団ということはありえないだろうし、そうした集団=マスとしての市民の知識は、量的にも質的にも、専門家集団のそれに劣るだろう。

しかしながら、専門家に敵わないからといって、一般市民は考えることを止めてしまっていいのか。専門家なら誰もがすでに知っているからという理由で、それを素人が不器用な手つきでたどたどしくたどり直してみることは無意味であると言い切ってしまっていいのか。

興味深いのは、中野は自分の素人考えが新しくないことを率直に認めている点である。重要なのは、議論の目新しさではないし、その独創性でもない。そうではなく、市井に生きるひとりの個人の生活感覚を起点にして、「ひとりの素人市民の常識」からわきあがってくる疑問を公にむけて語り、専門的議論においてまかりとおっている通説の妥当性や根拠性を問い直していくところに、中野の興味は注がれている。

結論それ自体の妥当性もさることながら、そこに至るまでの過程=プロセスの真っ当さをこそ、中野は議論の俎上に載せようとするのである。

これからも改憲論者は、ことごとに「押しつけ」論をもちだし、そんなものは返上してしまえをくりかえしてくるにちがいありません。というのは、それは、素朴な民族感情にきわめて訴えやすいからです。だが、わたしとして強くお願いしたいことは、そうしたばあい、単純に感情だけで判断するのでなく、どうしてそんなことになったか、それをまず考えてから、乗せられないように考えを決めていただきたいのです。(56頁)

端的に言ってしまえば、感情や感覚に任せた腑に落ちる感じだけで話を進めるのではなく、冷静で理性的な理解を大切にしていこう、というのである。

ここにあるのは、専門家だけではなく、一般市民も知っていなければならないことがある、という中野の信念だろう。質量ともに専門家に匹敵するものではありえないとしても、市民は、市民として知っておかなければならないことがあるのだ。それがなければ、わたしたちは懐疑するための推進力を失うことになる。「ひとりの素人市民の常識」は最初のきっかけにはなるだろうけれど、それをひとつの思索へと形づくっていくには、考える力と、考えるための材料がいる。そしてそれをシェアするためにこそ、中野のこの小著は広く再読される必要があるように思う。

 

政治と倫理

市民として政治を考えること、それはおそらく、政治を倫理から切り離さないこと、政治的目的のためにあらゆる手段を合理化するような抜け目なさを許さないことを意味するのではないか。すくなくとも中野はそのように考えているように見える。

「外交とは、祖国の利益になるようにウソをつくことだ An ambassador is an honest gentleman sent to lie abroad for the good of his country」という有名な発言を残した17世紀のイギリスの外交官ヘンリー・ウォトン Henry Wattonの言葉が、ある種の政治的真実を語っていることを、中野は否定しない。この典型的にマキャヴェリ的な言葉は、権謀術策の渦巻く外交世界においては、むしろ現実そのものだったのかもしれない。しかし、中野が続けて問うのは、宮廷外交の時代における心性を、「少なくとも形のうえでは民主的な国民外交の時代」になっている現代にまで持ち越すべきなのか、という点である。

政治や外交において二枚舌がまかりとおっていることは事実である。そのようにして作り上げられた騙し騙しのハリボテ世界では、対岸の火事のような緊急事態が起これば、否応なく戦争に巻き込まれることになるだろうし、自衛と他衛の区別をなし崩しにするような詭弁が必ずや再び持ち出されることになるだろう。

それを許してよいのか。

 

記憶を新たにすることは市民の義務である

過去の過ちをわたしたち自ら繰り返さないこと、過去の過ちをわたしたちの頭上に君臨する為政者や専門家たちに繰り返させないこと、そのためにこそ、市民には「記憶を新たにする必要」がある。過去を忘れないだけでは不十分である。危機に邁進しそうなときにこそ、記憶を新たにし、懐疑精神を新たにし、専門家や為政者たちの美辞麗句の裏に潜む魂胆を問い直すさなければならない。

悪い権力の乱用者は、つねに国民の忘れっぽさということを踏み台にします。ある意味でいえば、それが常用の手口です。だとすれば、わたしたちが二度だまされまいと思えば、ときどきは本源にかえってほんとうのことを思い出してみる必要があります。記憶を新たにする必要があるのです。忘却は罪悪であるばかりでなく、重大な危険でさえあるのです。(85頁)

モンテーニュの友人であったエチエンヌ・ド・ラ・ボエシは『自発的隷従論』でこれと非常によく似た議論をしている。

統治される側を歴史健忘症にかからせることを、権力者はもくろむ。というのも、「なぜ」「どのようにして」わたしたちが支配される身に甘んじることになったのかを思い出せないようになってしまえば、いまある現実がまるで変更不能なもののように見えてくるからである。それどころか、いまある隷属の現実が初めからここにあったかのように錯覚させられ、そのような錯覚を否定する材料がまるでないがゆえに、真っ赤な嘘を信じるほかなくなってしまうからである。

ここで中野の議論があくまで、フランスやドイツを対象とする研究者が持ち出しそうな絶対的な真理であるとか真実のような抽象的概念ではなく、「二度だまされるのはごめんだ」(83頁)という生身の具体的な生活体験に根差しているというのは、経験主義を旨とする英文学の研究者である中野らしいところかもしれない。しかし、だからといって、中野の議論が哲学を欠いているというわけではないだろう。英米文学を深く愛したフランスの哲学者ジル・ドゥルーズは、クレール・パルネとの共著Dialoguesのなかで、「経験主義はイギリス小説のようなもの」であり、「小説家として哲学をやる、哲学のなかで小説家である」ことなのだと述べていたことが思い出される。

だからこの文章を、中野の議論の要約ではなく、中野が描き出す二つのシーンを引用することで、閉じることにしたい。

いつかある護憲の集まりで、長年婦人の地位向上のために、弾圧を忍びながら苦闘されてきた久布白落美さんが、たとえばわたしたち日本の婦人は、妻が姦通すれば罰せられるが、夫がいくらやっても、男の甲斐性くらいで許されていた。こんな婦人をその不合理から解放してくれたいまの憲法――これはもうだれが押しつけたのか、くれたのかしらないが、わたしたちはどうして保守派の改憲などにまかされましょう。死んでもわたしたちは守りますと、もう年老いて、からだもあまり自由そうでない久布白さんが、訥々と感想を述べられたことがありました。なまじ憲法学の論理などでない、長い実感に即したその感想が、非常に深い感銘をあたえたのを覚えています。

また、これはしばらく前ですが、畏友の臼井吉見くんが「読売新聞」紙上で、終戦時の思い出を長い連載に書いていました。臼井くんは、戦争の末期、小隊長として召集され、東京近在のある海岸で穴掘りばかりさせられていたのですが、例の敗戦の「玉音放送」があったその直後、部下の兵たちに敗戦の事実を告げるとよもに、ポツ(113)ダム宣言についても簡単に説明をしてやったそうです。するとひとり、「『隊長殿!』と呼びかけた兵があった。……若い兵であった。目にいっぱい涙をためていた。『その基本的人権というのは、イヌやネコよりは、いくらかましな取り扱いをするということでありますか?』と。」ここで臼井くんはなんの注釈も加えていませんが、おそらくこの兵士の質問に驚くとともに、深く胸をつかれるものがあったればこそ、十九年後のその日まであざやかに覚えていて書いたのでしょう。「イヌやネコよりは、いくらかましな取り扱い」――これは旧憲法下における、ほんとうに名もない国民の声といえるものでしょう。旧憲法下にヌクヌクとしていた支配層、あるいは軍人・官僚のもとで、犠牲のシワヨセを受けることはあっても、けっして人間らしい幸福には恵まれなかった大多数国民の、これこそ直感的に出た実感の声だったのではないでしょうか。けっしてみんなとは申しませんが、きっとみなさんのなかにも、この若い兵氏の一言に実感をもって共感される方は大勢いるはずです。それを考えていただきたいのです。(114頁)

そう、わたしたちはそれを考えなければならないのだ。どんな世界を選ぶのか。誰のための世界を、誰のために、何のために選ぶのか、を。