うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

わたしたちは同じ夢をともに夢見ている:クリスティアヌ・ジャタヒーの『Utopia.doc』

20200506@くものうえせかい演劇祭

70分ほどのドキュメンタリー映画『Utopia.doc』のなかでクリスティアヌ・ジャタヒーは「わたしたちは同じ夢をともに夢見ているのか」という問いをたえず投げかける。その問いに応えるように、移住と定住をめぐるオーラルヒストリーの記録映像に登場するさまざまな移民たちが、みずからのライフストーリーを語り、テクストを朗読し、異国の地に作り出した「わたしの居場所」を披露してくれる。

サンパウロ、パリ、フランクフルトを行き来する映像は、移民ひとりひとりの生のユニークさを明るみに出すと同時に、彼ら彼女らの異国体験の共通性を浮き彫りにもする。人が祖国を離れなければならない理由はさまざまである。内戦のために、自然災害のために、というように。それはいわば強いられた故国喪失であり、その原因は往々にして個人的なものではない。にもかかわらず、そのようにして母国を去るしかなかった人々がたどってきた人生は、誰のものとも似ていない。パリに住む母の姉に育てられ、生まれ故郷であるコンゴの記憶すら持たない黒人の青年は、コンゴからアンゴラに逃げ、ロシアからウクライナに移住し、そこで子を産み、さらにパリに移り住んだ母の妹と再会したという奇跡のようなおとぎ話のようなエピソードを語ってくれる。

しかしその一方で、異国に住む移民たちは共通の体験をしてもいる。周囲からのネガティヴな反応だ。それは黒人が珍しい国に移り住んだ黒人移民がとりわけ強く感じるものであるけれども、異物として扱われる、よそものにたいする視線を向けられることは、黒人にかぎったことではないだろう。いまここにいる未知の存在――あるひとりの移民――にたいする怖れが、未知なるもの全般――移民一般――にたいする怖れに転化するという付近住民の過剰反応は、おそらくいつでもどこでも起こりうる。

それは他方では、移民たちの内面の問題でもある。どこにも属していないという感覚、だからこそ、帰属の物語をあらたに創造しなければならないという必要性。それは、強いられた移住のもとになった悲しい出来事――殺害された両親、あとに残してきた親類縁者――を語りたくないという記憶の封印の必要性と、パラレルなものなのかもしれない。だからこそ、移民たちは、同胞として受け入れてもらえる場所を切望する。それは住居というような具体的な意味での「わたしの場所」にとどまらない、もっと公共的な場である。それはまさに、「どこにもないところ u-topia」であり、「このうえなくすばらしいところ eu-topia」である。

ブラジル生まれで、文学と映画を愛しながら育ったという1968年生まれのクリスティアヌ・ジャタヒーは、舞台と映像、演劇と映画の「はざま」で仕事するアーティストだという。それを知ると、このドキュメンタリー映像がなぜ「素材」的な手触りを感じさせるのか――まるでインスタレーションの一部である映像であるかのように――が不思議なまでに腑に落ちる。映像作品としては完成しきっていないような、どこか余白が残っているような、そんな感じがするのだ。たしかに、とある日本人のユートピア――ベッドに寝そべったまま果物を好きなだけかじって、いまは亡き猫と戯れる――をかなえる友人たちに包まれて感涙にむせぶラストシーンはそれなりに感動的ではあるのだけれど、どこか偽のエンディングというニュアンスを感じてしまう。

なぜだろうか。

それはジャタヒーの描き出そうとするのは、矛盾や仮想――「もしも」のifストーリー――をも含めた可能性の物語だからだろう。それは、成就されて欲しいものではあるけれども、いまだ実現されていない(実現されるかはわからない)夢物語だからだろう。チェーホフの『三人姉妹』にインスパイされながら、ジャヒターは、「元に戻ること」、「出て行くこと」、「変わること」という、重なり合いはするけれども、決して等号で結ばれることのない希望たちを表象しようとしているように思う。

コンゴを逃れてブラジルはサンパウロに住む黒人の青年が、「肌の色はちがっても、血の色はみんないっしょだ」と述べるとき、わたしたちはこの惑星に住まう人間の根底的な共通性を痛いほどに思い知らされる。故国喪失者にして異国居住者である彼女ら彼らが一様に述べるのは、国境のない世界である。それは誰もが夢みる希望であり、経験から生まれた希望なのだ。なるほど、それは空想にすぎないかもしれないが、痛切な生の体験を持たない空想家の奇想などではない。生々しい切実な願い。大学院卒の白人のオーストリア人がほのめかすように、白人が引いた地図と世界観にたいして観念のレベルでの異議を申し立て。

コロナウィルスの感染拡大は、物流のグローバリズムの構造的な脆弱性を明るみに出し、各国元首は内向きなナショナリズム的原理――自国民の安寧のために外国や外国人を二の次とする――に回帰している。そのような自国優先のプラグマティズムがなし崩し的に絶対化されるなか、国境なき世界こそがよりよい世界であり、そのような夢をわたしたちはともに夢見ているのだというジャヒターの映像がひそやかに高らかに言祝ぐメッセージは、はたして誰に届くのだろうかと思わずにはいられない。

しかし、そのような絶望的な空気のなかにいるからこそ、わたしたちは、いまここの世界が本当にわたしたちの望む場所なのかどうかを、我が身に問い直してみなければならない。そしてその問い直しは、いまの社会のなかの勝ち組からではなく、もっとも脆弱な者たち、しかしながら、もっとも解放的な願いを熱く強く抱いている社会の周縁者たちの生から、立ち上げられなければならないだろう。それがおそらく、白昼夢のようなユートピアの記録文書を、真の意味で、来るべき未来のための設計図にかえるための唯一の方法であるように思えてならない。

 

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