うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

誰かには特別なわたしの物語群:濱口竜介『偶然と想像』

自分ひとりではどうしようもないことを、誰かと共有することで、どうにかできるものにする――濱口竜介が『偶然と想像』で描き出す物語は、そういうものだろう。この映画をかたちづくる3つの短編「魔法(よりもっと不確か)」、「扉は開けたままで」、「もう一度」のあいだには、プロットの連関はない。登場人物たちはかぶらないし、同じ世界の住人であるかすら定かではない。

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だから、この3つの短編をひとつ続きの連作として成立させているのは、主題的な統一感だ。魔法のように不思議な、奇妙な奇跡のような、相互理解の出会い。誰にも伝えることのできなかった言葉や想いが、たまたま出会っただけにすぎないような他人とシェアされる。

まったくの偶然のめぐり合わせが、登場人物たちの想像を働かせる。言葉が交わされ、心も体が揺さぶられ、過去の記憶や現在の葛藤が増幅され、感情が混ざりあう。かならずしもきれいには解決しない。混じりけのない幸せな大団円には至らない。だから、観ている方が、キャラクターたちの生のままならなさを劇場からそれぞれの胸のうちに持ち帰ることになる。そこにこの映画の魅力的な感染力がある。

どこか村上春樹的なニュアンスがあるけれど、ジェンダー的なひねりがある。どの短編も、三角関係物語の変奏になっている。「魔法(よりもっと不確か)」では、小悪魔的な女性モデルと、その友達の女性スタイリストが、同じ男をめぐって対立しそうになる。「扉は開けたままで」は、芥川賞受賞の大学教授が、彼に単位を出してもらえなくて就職が決まっていながら留年を余儀なくされた大学5年生によってけしかけられた、彼のセフレ――子持ちながら大学で学ぶ女性——と、あくまで言語的に、親密な交わりを結ぶ。「もう一度」は、コンピューターウィルスで通信が麻痺した世界において、高校の同窓会で地元仙台に戻ったアラフォーの女性が、駅前のエスカレーターで出会った同年代の女性をかつての恋人と取り違える。しかし、その取り違えをとおして、最後まで登場することのない不在の第三者を介して、二人の女性は、20年近く前にはどうしても伝えることのできなかった想いを言葉に出し、見ず知らずの他者を演じる赤の他人に、その言葉を伝える。おそらくこれらはみな、女たちの物語なのだ。女たちが語る女たちの物語。

観客は、キャラクターたちの葛藤の受け取り人となるばかりか、葛藤の持ち主にも同一化することになる。わたしたちは単なる傍観者ではいられなくなる。安全地帯から物語を消費するのではなく、キャラクターたちの危うさを自分のものとして引き受け、彼女たちの苦しみや悩みを共に生き抜くことになる。だから、モデルが元カレに傷づけるような言葉をぶつけるとき、そして、そのような言葉に憤る元カレが彼女をすげなく扱うとき、それから、彼女とスタイリストがお茶しているときにたまたま通りかかった彼が同席したとき、すべてをぶち壊すように過去の関係をぶちまけてしまおうかとして踏みとどまる彼女がふたりを残して去っていくとき、わたしたちは三人の誰とも共感し、誰か一人だけと共感することができなくなる。わたしたちは、中立のポジションではなく、すべての当事者となる。

わたしはわたしのことを特別な存在とは思わないかもしれないし、みんながわたしのことを特別だと思ってくれるわけでもない、けれども、にもかかわらず、わたしのことを特別だと思ってくれる誰かが近くにいる、そしてそのような人の言葉や想いがわたしを勇気づける、わたしはわたし自分の生をいつくしむことができるようになる――『偶然と想像』はわたしたちの心をかき乱すけれど、わたしたちの心を温めてもくれる。

 

前作を観ていないので、この一作だけで、濱口竜介のスタイルを論評することは難しいけれど、主観的な印象としては、映像的な旨みが少ない監督であるように感じた。人物造形や物語構成は繊細にして骨太であり、言葉に圧倒的な強度がある。しかし、ショットだけで有無をいわせぬ説得力があるかというと、そうでもない。とくに、時間経過を表すために文字情報でそれを示唆してみたり、前提となる物語世界の状況を文字情報で説明してしまうというのは、映像作品としてはどうなのだろうかと思ってしまうところもある。

 

本作はきわめてクローズドな劇だ。濱口が前景化するのは、キャラクターたちのいまここの心情であり、過去の記憶であって、キャラクターたちが生きる社会や世界ではない。この映画を理解するために、日本の特殊事情についての知識はまったく必要ではないだろう。キャラクターたちの生きられた経験が、この映画のコアにある。そしてそのような経験のコアは、文化依存的ではないし、時代依存的でもない。

濱口の物語は純粋な心理劇だ。究極的には、キャラクターは日本人である必要がないし、日本語で話す必要もない。たしかにこの物語はキャラクターたちの語る言葉の力に支えられているし、言い回しが重要な意味を持っていることはまちがいないけれど、それらは日本語の翻訳不可能な表現に依拠しているわけではない。濱口の物語は、翻訳によって失われるものがきわめてすくないだろう(優秀な翻訳者が字幕を担当するのであれば)。

彼の映画が海外の映画祭で受け入れられたのはよくわかる気がする。

 

村上春樹にインスパイアされた、童貞的でジュヴナイル的な新海誠の物語を、アダルトに実写化したのが濱口竜介の映画だ、と雑な感想を述べてみたくなるところがある。PC的でサブカル的な、大人の恋愛映画。

良くも悪くも、人を選ぶ映画だろう。心の襞をなぞるような物語は、わたしたちの心の襞をもくすぐることになる。それは、精妙な経験ではあるが、心地よいものとは言いがたい。居心地の悪さを感じ、スクリーンで続いていく会話を暴力的に打ち切ってしまいたい欲望に駆られる者はけっして少なくないはずだ。そして、そのような生理的拒否反応を示すかもしれない層を説得するような映像的ギミックは、この映画には存在しないだろう。好きな人はとことん好きになるだろうけれど、直感的に生理的に合わないというファーストインプレッションを持ってしまった層にこの映画を見通させることはかなり困難であるように思う。

 

幅広い層に観て欲しい映画ではあるが、幅広い層にアピールするための説得装置は持ち合わせていない――それを欠点とみなすか、個性と受け取るかは、微妙なラインだろう。

しかし、もしかすると、19世紀の自然主義演劇もまた、このようなものだったのかもしれない。イプセンの『人形の家』は、どこにでも起こりうる(けれども、現実的にはどこにでも起こっているわけではない)事柄を取り上げ、それをラディカルに展開しきることで、わたしたちの考え方や感じ方の根本的な問い直しを万人にとっての問題に変容させた。濱口の映画にも、そのような静かに深い社会的変容の可能性が潜在している。

 

とはいえ、個人的な好みでいえば、この手の心理劇のベトついた感じは苦手だ。とくに冒頭のタクシーのなかでの女子会的なふたりの会話は、映像的な美に乏しく、ここで嫌になってしまう層がいても不思議はない。しかし、そこを乗り越えれば、この映画は最後まで観させられてしまう力を持っている。