うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

特任講師観察記断章。失敗する「社会距離戦略」。

特任講師観察記断章。「社会距離戦略」が生協食堂でひっそりと展開されている。4人掛けのテーブルから椅子が2脚取り払われ、残りの椅子も真向かいではなく対角線上に、互い違いに配置されている。にもかかわらず、気づいたかぎりでは、どこにもなぜそんなことをやっているかの通知がない。だからなのか、学生たちは(いや、学生にかぎらず、教職員もだが)食堂ホールの端にスタックされた椅子を勝手に持ってきたり、近くのテーブルの椅子を引き寄せたりして、結局4人掛けのテーブルを4人で使用しているありさまだ。このぬるさは何なのか。机の上にビラを置く、一声かける、なんでもやりようはあるだろうに、そうした徹底化がない。だから、正しい意図をもって作られた不完全な場は、あっさりと誤用される。

善意を見せるだけでは不十分なのだろう。押しつけは嫌われる。そればかりか、押しつけることは良くないということが、ほとんど社会的なコンセンサスとしてのしかかってきているようにすら思う。しかし、物事を突き詰めることは、はたして、何かしらの強制力なしに果しえるだろうか。なるほど、それはもしかすると、圧倒的な熱量による外からの感化のようなものによって代替可能なのかもしれないけれど、それは結局のところ、メッセージを発信する者のカリスマに頼るということにすぎない。

(わたしが)やるべきこと(であると信じること、さらにいえば、わたし個人の信念ではなく、何らかの外在的権威の推薦でもあること)を(あなたが)やること。「やる」を「やらせる」と言ってしまうことができるのなら、いろんなことが簡単になるが、それは結局のところ、主体性なき盲従を迫ることにしかならない。

しかし、時間をかけることができる親密なコミュニケーションが可能ならまだしも、現代社会は、大学の教室においてすら、疎遠で瞬間的な関係性を設計の中心に据えて考えざるをえない部分があるような気もしている。

そこで、いかにして、強制的命令でもカリスマでも奴隷的服従でもない、べつの繋がりかたによるべつの導きかたを実践することができるだろうか。「社会距離戦略」を強いられた状況のなか、そこから、単なる反応でも妥協でもない、安全を確保したうえで、そのうえでなお創造的な逸脱を続けていくような関係性を生み続けることができるか。