マイケル・ティルソン・トーマスの録音を最近よく聞いている。きっかけはソニーから再発されたイギリス室内管と1980年前後に録音したベートーヴェンの交響曲全集だ。古楽器的なアプローチというわけではない。演奏スタイルの流行で言えば、取り残された部類に入るだろうし、いまこのような演奏をする団体はよほど保守的であると言わねばなるまい。しかし、室内楽的な透明感と躍動感を縦糸に、ベートーヴェン演奏の伝統を意図的にカッコにいれたような(とはいえ完全に無視しているのではない)新鮮さと自由さを横糸にして編まれた演奏は、今聞いても、不思議なほどフレッシュに聞こえる。黎明期の古楽器演奏がいわば時代遅れに聞こえるのとは対照的だ。
当たり前といえば当たり前、誇張があるわけでもないし、見落とされてきたところに光を当てたという感じでもない。普通の演奏といえば普通の演奏なのだが、嫌味がなく、細部まで丁寧な配慮が行き届いている。リズム感がよく、テンポが弾む。音のバランスがいい。どこかの音域が強調されているわけではないし、全体が神経質なまでに整っているというわけではない。歌うところは充分に歌う。自然体でありながら、ひどく洗練されている。
とはいえ、MTTのレパートリーの中核がどこにあるのか、意外なほどわからない。サンフランシスコ交響楽団とはマーラー全集を録音したし、シカゴやコンセルトヘボウとのアイヴズ録音はスタンダードだ。コープランドやガーシュインの録音も少なくない。アメリカ時代のストラヴィンスキーという興味深いアルバムもある。だから20世紀アメリカ音楽に造形が深いと言ってもいいのだけれど、それはどこか違う感じもする。Keeping Scoreは、バーンスタインのThe Unanswered Question、ラトルのLeaving Homeに並ぶ見事なドキュメンタリーであり、MTTの音楽が感性や直感にとどまらない、知性や知識に裏付けられたものであることを教えてくれるけれど、かといって彼の音楽の凄みはそうした知的な部分にはないようにも思う。
指揮ぶりはむしろ大づかみで、コントロール系ではない。その意味ではバーンスタインに似ているが、バーンスタインよりはるかに精密なのは、MTTの音楽単位が細かいからだろう。リズムパターンや動機断片の把握が、かなりミクロで、その意味ではマニアックなほどであるにもかかわらず、MTTの音楽は決してそうした神経質さが表に出てこない。ロンドン響とのショスタコーヴィッチ交響曲5番の演奏は、なんとも優美で、普通なら暴力的に聞こえるところまで、エッジを磨いてあるような不思議な印象を受ける。そして、ときおりあるレガートの官能性。極上の繻子の生地を撫でたとき思わず体が芯からくすぐられるような、そんな肉感的な手触り。
スタイリッシュ。それがおそらく、MTTの作り出す音楽に共通するものを言い当てる言葉のひとつだろう。そして、若々しさ。しかし、若気の至りのような放縦さとはちがう、老成した瞑想性のみずみずしさ。もしかすると、彼の音楽は、とことんアメリカ西海岸的なものなのかもしれない。