うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

踊らない指揮、踊らせる音楽:ストラヴィンスキーの自作自演

イーゴリ・ストラヴィンスキーは指揮もする作曲家の系譜に連なるひとりではあるけれど、指揮するのが自作に限定されているという点で、きわめて特異な存在である。

もちろん、自作以外を振っていたことは間違いないと思うし、実際、LAフィルとのチャイコフスキーの交響曲2番の演奏がYouTubeに ある

しかし、SP録音からステレオ録音まで、40年以上にわたって録音技術の進化と付き合いながら、商業録音のほとんどが自作自演であるというのは、何かとても不思議な感じがする。

 

ストラヴィンスキーにとって録音は、ある意味では、金稼ぎの手段だったのかもしれない。ストラヴィンスキーは1910年代初頭作曲の『火の鳥』や『ペトルーシュカ』に何度も手を入れているけれど、それは、アメリカ亡命後の経済的に不如意な状況のなか、スコアを改訂して新版を出すことでロイヤリティー収入を確保しようという意図が背後にあったという話をどこかで読んだ記憶がある。

 

ストラヴィンスキーは人気の作曲家だった。自作の宣伝のために、自ら指揮棒を取る必要のなかった作曲者だったはずだ。1913年にパリ・オペラ座を揺るがした『春の祭典』の初演を振ったピエール・モントゥーにしても――1875年生まれのモントゥーは1882年生まれのストラヴィンスキーよりひと回り近く年上だ――、1883年生まれのエルネスト・アンセルメにしても、1912年生まれのイーゴリ・マルケヴィッチにしても、バレエ・リュスの創設者ディアギレフに近しい音楽家たちという信奉者がいた。

誰も演奏してくれないから自分で演奏するしかない、というような追い込まれた状況でやむをえず振り始めたのではないはずだ。

 

ストラヴィンスキーの演奏者にたいする敬意のなさは悪名高い。ボタンを押せば音が出る式の機械的なメカニズムとしてオーケストラを捉えていた部分があるという。

しかし、指揮しているストラヴィンスキーの映像を見ると意外なほど楽しみながら振っているようにも見える。歓びが全身からあふれ出すというようなかたちではないし、彼が感じていたのかもしれない歓びはどこかひねくれたたぐいのものだったのかもしれないとは思うものの、たとえば『火の鳥』の終結部の盛り上がりを意図的にトーンダウンさせるような逆張りニヒリズムストラヴィンスキーの指揮には存在しない。

 

生前も死後も演奏者に恵まれたおかげで、ストラヴィンスキーの自作自演の価値は、演奏自体の卓越性ではなく、作曲者本人によりオーセンティックな録音という資料的意義が強い側面があると思う。『春の祭典』のレファレンス録音として現在ストラヴィンスキーのステレオ録音を上げる批評家や音楽ファンは少ないと思う。

ストラヴィンスキーの演奏は、ほぼ同時期のブーレーズフランス国立管弦楽団による鮮烈な録音に比べると、あきらかに緩い。オケの弱さもあるし、ストラヴィンスキーの指揮技術の不備もあるだろう。

たしか晩年のコロンビア録音はロバート・クラフトが下稽古をつけていたはずだけれど、プロの指揮者に比べると、ストラヴィンスキーの指揮――タクトを持たず、軽く握ったコブシで、小さめの動きで、最低限の拍子をとっていく――は、ストラヴィンスキーより2回りちかく年上の1864年生まれのリヒャルト・シュトラウスのプロフェッショナルに抑制された簡素さと比べると、あきらかにアマチュアじみている。

 

しかし、ストラヴィンスキーの演奏がどうしようもなくズレているのかというと、そんなことはない。ブーレーズ以降あたりまえになってしまった精度はない。しかしストラヴィンスキーには、ゆるぎないノリがある。バレエの踊る身体を想定した、線の太い、循環し回帰するリズムがある。

指揮をするストラヴィンスキーの身体が踊っているわけではないけれど、見栄えのしないストラヴィンスキーの指揮ぶりは、誰かを生理的に心地よく躍らせるための不器用な献身さの現れであるようにも思う。

細部ではなく全体の大きな流れに耳を澄ますとき、そして、物理的な意味での音の精度はなく全体に充溢する諧謔的な喜悦に耳を澄ますとき、ストラヴィンスキーの自演が、超越不可能な特異点として浮かび上がってくる。少なくともロイヤル・フィルとの『放蕩者のなりゆき』の録音は、自分にとって、そのような突出した録音であり続けている。

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