フリッツ・ブッシュのグラインドボーン祝祭管とのモーツァルト=ダ・ポンテ三部作の録音は、いまなお新しい。ドナルド・キーンはブッシュの『フィガロの結婚』でイタリア語を覚えたというような話をどこかで読んだ記憶があるけれど、自分のイタリア語もまた、ブッシュのモーツァルトの録音から学んだものである。
やや速めの、しかしそれでいて、前のめりにはなっていない快活なテンポ。感傷的なところのない、しかしそれでいて、情感に乏しいわけではないみずみずしいアーティキュレーション。
世界初録音という資料的価値でもなければ、30年代のノイエ・ザッハ・リッヒカイトの模範例という歴史的価値でもなく、ただ演奏それ自体として、いまなお生きている。
もちろん古臭い部分はある。SP録音の限界はある。オケのダイナミクスは頭打ちになっている。数人の重唱ならまだしも、全員のトゥッティとなると、入り切っていない音がある。
歌い崩しや歌い外しは、この年代の基準で考えれば皆無といってもいいけれど、現代的な耳からすると、やはり苛立たしいほどに古臭い。小刻みなビブラートが煩わしいし(とくに女声)、旋律よりも性格表出のほうを優先しているかのようなスタイル(とくに男声)は、芝居としては正しいのだろうけれど、音としては雑味に近い。
しかしその一方で、芝居達者ぶりが音楽に昇華されている歌手(たとえばレポレッロを歌うサルヴァトーレ・バッカローニ)もいれば、コケティッシュな魅力がスタイルの古さを超越している歌手(たとえばグラインドボーン音楽祭の創設者のひとりでもあり、スザンナとツェルリーナを歌うオードリー・マイルドメイ)もいる。
オーケストラの弦のトップにブッシュ四重奏団のメンバーを座らせる計画があったが、イギリスの音楽家組合の反対で断念したという話をどこかで読んだ記憶がある。ブッシュ兄弟が指揮とファーストバイオリンとチェロを担っていたら、いったいどんな音楽になっていたのだろうかという気持ちもあるけれど、ブッシュ四重奏団の幽玄な音楽は、フリッツの求めるところだったのだろうかとも思う。
何が上手いかといえば、テンポだ。リズムの弾み方と言ってもいい。たしかに、自然というには少々速い。少し急き込んだ感じがある。しかしそれは、無理に急き立てているのではなく、加速から生まれてくる必然的な推進力のように聞こえる。
ブッシュの録音の「どこ」が具体的に凄いのかを言い当てるのは、なかなか難しい。いや、不可能と言ってもいい。歌手の一人一人、アリアのひとつひとつを個別に聞くと、なにか物足りない気がする。クライマックスだけを聞いてみても(たとえばドンジョバンニと騎士団長の対決)、迫力不足に感じる。しかし、通しで聞くと、ブッシュの音楽の過不足のなさが、怖ろしいほどに感じられる。
ブッシュの音楽には過剰がないけれど、かといって、凡庸ではない。
ある意味、きわめて普通であり、そのままなのだけれど、この「そのまま」がいかに得難いものであるか、この「なんでもない」全体の流れが、いかに「とんでもない」ことであるか。楷書体の演奏でありながら、型にはまっていない。むしろこの演奏が、型を創出しながら、みずからを自由に型に収めているような印象もある。
戦後の録音の『イドメネオ』を聞くと、歌手はあきらかに格上だというのに、なぜか微妙に物足りない。ブッシュのメトロポリタン歌劇場での演奏も、ブエノスアイレスでの演奏も、なにかしっくりこない。30年代のグラインドボーン音楽祭が、歴史の特異点だったのだろうか。