うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

工業的大量生産品をユートピア化する:静岡県立美術館「きたれ、バウハウス」展

20200523@静岡県立美術館

具体的に存在している物を抽象化し、抽象的なモノ――線や図形――に具体的な動きや流れやバランスを見いだし、それをふたたび物質として具体化する。具体的なものを純粋に具体的にするために、それを抽象的な要素として捉え直すという迂回が必要なのだ、ということだろうか。

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バウハウスの場合、工業生産という、近代世界に出現したいわば「非人間的」なものを逆手に取り、そこに美学的な洗練の可能性を見いだしたところが面白い。ヴァルター・ベンヤミンの「複製技術時代の芸術作品」はこのあたりと同じ磁場にあるのだろう。

機械は美しいというのがイタリア未来派マリネッティの仕掛けた挑発的マニフェストであったわけだが、バウハウスの場合、既存の機械が「すでに」美しいというのではなく、マスプロダクトの工業生産品でさえ、その根本にある設計や素材を突き詰めることで、美しく有用なものに変容させうるのだという、純粋性や可塑性にたいする信念があったように思う。雑多さや乱雑さを称揚するダダイズムとちがうのはそこだ。

フォルムを追求しているという意味ではキュビスムと連続する部分もはあるのかもしれないが、たとえばピカソの場合、どこかモノのゴツゴツとした質感を残し、プリミティヴな力を直接的に表出させようとしていたけれど、バウハウスはもっと抽象絵画よりである。プリミティヴなエネルギーを濾過し、蒸留し、雑味を取り除く。その意味では、カンディンスキーの空間構成課題――静物を組み合わせ、それを具体的な線に落とし込み、そこからさらに別の線を引いていくという課題――が典型例だろう。

 

とはいえ、パウル・クレーも教授陣に顔を連ねていたことを思うと、ここには単なる理性的抽象性には還元できないものもある。洗練一辺倒ではない、なにかもっと神秘主義的なもの、ゲーテの色彩論にさかのぼることもできるのかもしれない、ロマン主義的な超越性への憧れも、バウハウスのなかにはあったのではないかと思う。図形と色の有機的な結びつき――うろ覚えだが、カンディンスキーは三角が黄色で、四角が赤で、円が青だと論じていたらしい――がバウハウスで熱心に論じられていたというのは、きわめて示唆的である。

生々しさはあるし、素材感を大切にしている部分もある(素材に実際に触ってみるという教育は、19世紀後半から20世紀初頭にかけて誕生してきた児童教育――たとえばモンテッソーリ教育――と軌を一にするところでもある)。有用性を重んじているところもあるし、用の美を追求している部分もある。

美しい生活という理念のレベルでは、アーツ・アンド・クラフトと共通するところもあるのだろうとも思うけれど、アーツ・アンド・クラフトがいわば素材の唯一性や量産に背を向けた工芸品としての唯一性を目指したのにたいして、バウハウスの思想は、最初から、大量生産品であること、工業生産品であることを出発点としている。デザインが直線的なのは、加工のしやすさ、それから、輸送や在庫管理のしやすさも、念頭にあったのではないかという気がする

顧客が持ち帰りやすいように組み立て前の製品がフラットになるような設計を金科玉条としているIKEAは、バウハウスの思想の延長にあるような気がするし、現代のプロダクトデザインや建築デザインの多くが、バウハウスに起源をもつのではないかとすら、展示品を見ていると、思えてくる。しかし、だからといって、バウハウスがすでに古びてしまった元ネタにしか見えないかというと、そんなことはない。

 

大量生産と有用性と美のどのレベルにおいても妥協しないこと。利益のためにクオリティをあきらめたり、使い勝手のために美しさを犠牲にしたり、美のために採算を度外視にしたり、というようなトレードオフに持ち込まないこと。すべての芸術は音楽に憧れると述べたのはウォルター・ペイターだったと思うが、すべては建築にむかうというような理念を表明したヴァルター・グロピウスが目指したのは、空間のトータルコーディネートであり、そこにはそもそも妥協という考えが入り込む余地はなかったのではないだろうか。

バウハウスが空間を設計する建築を志向したとして、その建築が、都市空間そのものの設計にまで及んでいたのかは、いまひとつよくわからなかった。なるほど、建物はモダンにできるし、インテリアをモダンにすることもできる。しかしそのようなモダンな空間をとりまく外部にたいして、そのようなモダンな建築物はどのような関係を切り結ぶのだろうか。環境から浮くのか、環境から際立つのか、環境によって変えられてしまうのか、環境のほうを変えていくのか。

建築はおそらく究極的には都市設計の問題に向かわざるをえないし、それと同時に、コミュニティの問題に開かれないわけにはいかない。建物は生活のためのものであり、人間なしには、人間に限定しないとしても、その空間を住処とし利用する生物の存在なしには、無意味である。邸宅という私的ユートピアが連なってゲイテッド・コミュニティが形成されうるとしても、それでそのように閉じられた空間の外部がなくなるわけではない。コロナウィルスの感染拡大は、壁による物理的な分断の虚構の真実を暴き出した。

工業的な大量生産品のユートピア、それは、気がねなしに浪費できるところでもなければ、どうでもいい品が溢れかえるところでもないだろう。それは、有用で美しいものや空間が、すべての人に、すべての人のために、デザインされ、具現化されているところだろう。そのようなものがすべての人の手に届かせる可能性を決して手放していないところだろう。バウハウスは、はたして、そのような場所だったのだろうか。