うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

音楽としての指揮:カラヤンの指揮する身体

ヘルベルト・フォン・カラヤンがどのような音楽を目指していたのか、どうもよくわからない。ベルリンフィルとの録音は、スポーツカーのエンジンを全開で吹かして最大速度で駆け抜けていくような無神経な爽快感がある。しかしその一方で、オペラ録音になると、歌手をうまくサポートし、声をオケに埋没させないような繊細な配慮が行き届いている。

極上の繻子のような官能的なまでになめらかでなまめかしい手ざわりのする分厚い音。奔流のような膨大なボリューム。徹底的にレガートでシームレスなアーティキュレーション

それはおそらく、ナルシスティックな音楽と言っていい代物なのだと思うし、ベルリンフィル音楽監督に就任したばかりの50年代の映像を見ると、カラヤン自身がそのようなPR戦略を自ら指揮していたことは間違い。翼のように後ろにかきあげられた前髪。目を閉じて自らに語りかけているかのような陶酔的な身振り。

カラヤンは指揮をスペクタクルに、指揮者をセレブにした張本人であるし、彼によって真の意味で録音が「商品」になったと言える部分もある。ゴージャスな音楽であるし、ベルリンフィルという世界最高の楽器を存分に生かした演奏ではある。

しかし、カラヤンの演奏が精密かというと、そうでもない。デジタル録音時代まで生き抜いたとはいえ、カラヤンの音楽性はきわめてアナログ的であり、点というよりは面で揃えるような、瞬間というよりはゾーンで捉えるようなものだったのではないかと思う。それは、机上の仮想の音ではなく、空間に響きわたる具体的な音だったのだろう。

カラヤンアインザッツは、ほとんど厚みのない薄く鋭いザンではなく、ザァァァンという残響の長いものだ。だからどうしてもモーツァルトベートーヴェンだと、キレが悪く聞こえる。しかし、シベリウスのような音の層や厚みの漸進的な運動で出来ている音楽だと、不思議と違和感がない。

80年代のウィーンフィルとの音楽は、衰えといったほうがいいようなブレを感じる。綺麗に収まってはいるけれど、それは、疾走するスピード感を犠牲にしてのことだったのではないか。

けれども、この微妙にズレた音の拡がりは、なにかとても美しい。最晩年のザルツブルク音楽祭でのジェシー・ノーマンとの「イゾルデの愛の死」は究極的な到達点だろう。カラヤンの左手の無限の表情。腕の動き、指一本一本の動きが、音楽になっている。虚空を握りしめるような動き、パントマイムのような硬さとなめらかさ。

カラヤンはショーマンだったのかもしれない。しかし彼の身体は、どれほどナルシスティックで、どれほどスペクタクル的であったとしても、きわめて音楽的であったことに、気づかされる。彼の指揮自体が音楽である。

 

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