うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

アバドの不完全さ:完結を拒否するワークインプログレス

クラウディオ・アバドの音楽は、なにかとても不完全に聞こえる。オーケストラのほうに能力が欠けているからではないし、指揮者のほうの力不足ということでもないだろう。音楽をする歓びがあふれだしているし、知的な洗練とともに、肉感的な愉楽もある。にもかかわらず、どこか欠けたところがある。

響きは澄んでいるほうだが、ブーレーズのような圧倒的な透明感に比べれば、わずかな淀みがある。かといって、そのような淀みが、カラヤンのような官能的な厚みや、バーンスタインのような魅力的な濁りになっているわけではない。デジタル的な精密さの先駆者ではあるが、後続世代のラトルにくらべると、アナログ的な緩さがある。イタリア人らしいカンタービレと弾みがあるが、トスカニーにのような有無をいわせぬ圧倒的な推進力にまではいたっていない。

微温的というのではないけれど、なぜかどこか中途半端な印象がぬぐえない。突き詰めが足りない。磨き上げが足りない。

しかし、それは、徹底することをあえて拒否するという意志的な選択の結果であるようにも思う。押さえつけて均すのではなく、解き放つことでまとまりを生み出そうとする以上、引き受けなければならない瑕疵だったのではないかとも思う。

アバドは、ムソルグスキーの『ボリス・ゴドノフ』であるとか、ロッシーニの『ランスの旅』であるとか、マイナーなメジャー曲の推進者だったけれども、世間に知られていない名曲を売るために過度な装飾を施すことはなかった。そこにアバドの誠実さがあるし、わけのわからなさがある。

目的のために手段を最適化しないし、目的達成を最適なかたちで行うことをめざしていない。

スカラ座、ロンドン響、ベルリン・フィルと、世界最高峰のポストを渡り歩いたにもかかわらず、アバドを野心家と呼ぶことはためらわれる。というよりも、このような花々しいキャリアは、アバドにとって不幸なものだったのではないかとすら思う。商品としての音楽を求められながら、その要望に十全には応えられない(しかし、平均点以上の出来を返すという如才なさを不幸にも持ち合わせている)。

アバドの指揮は上手いとは言えないように思う。指揮棒はあまり明確ではない。タクトの先ではなく、ジャケットから長めに顔を出すカフスのほうが、タクトを握る手のほうが、リズムの入りを示しているようなところがある。

左手の表現は雄弁だが、職人的な明晰さはなく、良くも悪くも芸術家肌だ。ムラッ気がある。見るぶんには面白いが、演奏者からすると厄介な指揮ではないかという気もする。その意味で、アバドはどこかカルロス・クライバーに似ている。歓びの爆発的な表出としての指揮。

しかし、クライバーが、偏執狂的に事細かな指示をオーケストラに徹底することによって自らの理想をリハーサルをとおして叩き込むことで、本番では自由に舞ってみせたのとは対照的に、アバドは、リハーサルでも本番でも、オーケストラの自発性をとことん信じ切っていたのではないか。

そのような絶対的な他者信頼に、アバドの人間的な凄さと音楽的な弱さが集約されている。アバドの音楽は、隅々まで作り込まれたもの(死んだものであるから反復可能なもの)ではなく、ほつれたりバラけたりという不可避的な不完全さをこそ、生命の本質として愉しむものなのだ。

おさえられない歓びがあふれ出ている演奏中の顔と、演奏後のどことなく憮然とした表情(とくに、観客からの賛否両論の反応に困惑しているとき)は、彼の音楽の本質を端的に表してもいる。

アバドの音楽は、本質的に、ワークインプログレスであり、完結とは程遠い。感情の烈しさこそが彼の真骨頂であり、それをどのように解決に導くかというハッピーエンドは、どうにも反りが合わない。

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